ゲームをしすぎてしまう自分に嫌気がさす・・・

公開日: 2013-04-07 日記


昔はゲーム機を持ってましたが随分前に捨てました。
今はゲームと言えばスマホでもなくパソコンのゲーム


最近忙しいのにゲームをする時間がとっても増えています。

寝る前にちょっと、と思いつつ生活に支障が出るくらい 遅くまでしてしまったりすることも多々。。。。

ゲームに限らず、一度ハマると集中しすぎてしまうタチの僕はこれまでもゲームをやり過ぎてしまう事は何度もありました。

でも、特にこの数年はいろんなゲームやっても、すぐに飽きてしまって続くことはありませんでした。

しかし、今回のゲームには飽きがありませんでした。



1つのゲームが飽きれば次のゲーム、それが飽きれば次、と言った具合に、それはまるで 必死でその状態に留まろうとしているかのようでした。(今考えれば。)

ではなぜ、そのような状態になっていたのか?

それは、この1年ほど、 フリーランスとして人から依頼される仕事を収入源にして、余力で面白いと思う企画をしていたのですが、
「もっと自分の企画とかやっていけ」
「人から誘われる仕事なんていらんのちゃうか?」
「自分のやりたいことやるための時間が全然足らん」

そんなことを自分のハラが思うようになっていたからみたいです。

収入的にもありがたい仕事をいただきながら、自分でもやりたいことを企画して、 「以前に比べればいい感じだ。順調だ」と思っていたのですが、僕のハラとしては「収入も以前も関係ない。まだまだ」という感じのようです。

そこに気がつくと ゲームをする自分というのは、ハラの声を聞かないために目の前にある仕事をし、それが落ち着きそうになるとゲームをしてやることを増やして、必死で自分の本音を聞くのを避けていたようにも見えてきます。

考えたら、僕が最近好きなゲームは、いわゆる防衛ゲームという、 たくさんの敵がきてそれを倒していくセワしないものでした。笑

わざわざ仕事と同じようなことをしていたわけですが、ゆっくりできる時間にもあえて仕事と同じように「やるべきこと」がたくさんあって他の事を考えなくて良いようにしていたんですね。。。

ここで一旦話は変わりますが、 人間がする「遊び」とは心を満足させるために発達したそうです。(動物がする身体的訓練に近いものを除いて)

これは僕の憶測で、間違っているかもしれませんが、 おそらく原始的な遊びでは、人の生き死にや、人とのつながりがその中にあり、暮らしの中で欠乏するものを取り戻したり、
人を超えた何かとつながりを感じるための儀式、というような意味合いもあったのではないでしょうか。

そういったものが芸能やスポーツのような形で発展する一方で、生死などからは切り離された今の社会に必要な心の満足を得るためにゲームやレジャーなど、もう一つの遊びの発展系が生まれたと考えるとどうでしょう?

今の社会の中でゲーム産業が発達してきたこと、 さらに家庭のテレビでするものではなく携帯性のあるものに発達が偏ってきている事などを視野に入れると、暮らしの中での不満を何らかの形で和らげたり、見えなくして延命する自己セラピーとしてのゲーム、という姿も見えてきそうです。

今回の僕に取っては、ハラでは(世に言う)不安定を望み、頭では(世に言う)安定を望んでいる。その不安定を見ないですむための「何か」がゲームでした。

たぶんこれ、ゲームじゃなくて、ギャンブルだったり、お酒だったり、食事だったり、いろんな形で現れるのでしょうが、こう考えると、人の生きるためのエネルギーというのはすごいんですね。
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