きよさんの投稿への応答 綴じるということ
公開日: 2017-04-07
隆一郎さん(きよさんの旦那さん)との円坐 |
つながっていて、それはまた次の新しい何かの始まりでもあったりするのだなと、きよさんの投稿を見させてもらって出てきた言葉。
昨日、きよさんが帰ったあと、旦那さんとお話する時間があって、やっぱりそのときも、隆一郎さんのお父さんやお母さん(やその父母のことまで)の話が出て来て、頭がクラクラとしていました。
それは旦那さんの話が難しかったからではなく(難しい話もその後して、それも自分にとってすごく大切な話でしたが)
キッチンを見るだけでも、使っていた人の面影が伝わってくる |
家の片付けを手伝っている中で、ぼくらより遅れて到着した隆一郎さん(家の主との血縁者)と初めて会ったときはだから、「ここにいる必然性や理由を説明できない」感じがピークになったときで、どうしていいのか分からず、かといって変に愛想をふりまく気にもなれず、戸惑っていたのでした。
それから「まあ出てけと言われたらいつでも出ていくつもりでいよう」と、妙な覚悟を決めて、きよさんと隆一郎さんの話を聞かせてもらったときに起こったのが冒頭の「クラクラ」。
家主がいなくなった今も、机、椅子、テレビ、置物、本、コップ、お皿、絨毯、電灯、あらゆるものが、ここで暮らしていた人の存在を告げていて、話を聞くことでそこに立ち上がるお父さんやお母さんの面影。それが、なっちゃんの祖父母や実家と重なり、ぼくの叔父さんの家や母方の祖父母と重なる。
隆一郎さんのお父さん「ご自慢の門」にて。 |
「とじる」という言葉には、「綴じる」(バラバラのものを一つにあわせる)という意味があるそうで、そうやって気の遠くなるような時間や空間をぼくも含めて丁寧に「綴じ」ていくことが、自分にとってのバカ丁寧に「とじる」ことで、これが一体何になるのか、どんな意味を持つのかは言えず、でも、お金や価値や意味によって回収されない自分自身を含んだ何かこそ、とじられるのを待っているものなのだろうと思うのです。
今もまだ、その途上で、今起こっていることに対しての自分なりの「刻み」として。
小林健司
※針に糸を通す、と、針に糸が通る、という両方の感覚が同時にあって、そのときどきの自分の意思で行動したことが目の前のことにつながった、のと同時に、向こうの方から出来事がやってきて毎回毎回それに応じていたらなぜか今この場所にたどり着いてしまった、2つの感覚が両方あるなと、昨日の夜、谷口家からなっちゃんの実家へと車を運転する中で思っていました。意思や行動に呼応するように出来事がやってくる、という言いかたもできるかもしれない。
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