『圧倒的な非対称』な世界で目の前の人を”きく”
中沢新一さんの「緑の資本論」に集録されている
「圧倒的な非対称」を久しぶりに読んで、
あらためて自分が、世界と貨幣について興味をもったことをふりかえる。
「富める世界」と「貧困な世界」の非対称な世界。
最初に、この世界を覆う(といっても過言ではないと思う)
貨幣に関係するシステムの存在を認識したとき、
僕はそのシステムからできるだけ遠ざかりたいと思った。
いろいろな理由があったと思うが、大きなものとしては
システムに加担することへの罪悪感を持ちたくなかったことだろう。
どこか無人島にでも行って暮らせば、システムからは離れられる。
といってもこのご時世、海洋汚染とか、開発とか、なんらかの影響は受けるだろうけど。
でも、生まれたときから「豊かな世界」で育った僕は
そのシステムの恩恵を受けずに暮らすことは不可能だし、不自然とも思う。
そう考えると、僕がほんとうに嫌だったのは、
システムが中心になるあまり、自分や目の前の人を蔑ろにすること、
というか、蔑ろにしていることを見えないようにしたり、なかったようにすること、
だったんではないかと思う。
だから、自分や人のことを、きくこと、みること、に注意を払いたいのだろう。
「圧倒的な非対称」を久しぶりに読んで、
あらためて自分が、世界と貨幣について興味をもったことをふりかえる。
僕の実家の蔵。この夏解体して今はもうない。 本文とは関係ない。 |
「富める世界」と「貧困な世界」の非対称な世界。
最初に、この世界を覆う(といっても過言ではないと思う)
貨幣に関係するシステムの存在を認識したとき、
僕はそのシステムからできるだけ遠ざかりたいと思った。
いろいろな理由があったと思うが、大きなものとしては
システムに加担することへの罪悪感を持ちたくなかったことだろう。
どこか無人島にでも行って暮らせば、システムからは離れられる。
といってもこのご時世、海洋汚染とか、開発とか、なんらかの影響は受けるだろうけど。
でも、生まれたときから「豊かな世界」で育った僕は
そのシステムの恩恵を受けずに暮らすことは不可能だし、不自然とも思う。
そう考えると、僕がほんとうに嫌だったのは、
システムが中心になるあまり、自分や目の前の人を蔑ろにすること、
というか、蔑ろにしていることを見えないようにしたり、なかったようにすること、
だったんではないかと思う。
だから、自分や人のことを、きくこと、みること、に注意を払いたいのだろう。