人の話を”きく”ことが、実は覚悟のいることだという件について
”きく”ことを学んだ非構成の場。 写真は2013年末の10日間の円坐の会場。 |
フリーランスという仕事柄、いろんな組織で一緒に働いたり、
内部の研修をしたり、会議にでたりしてきました。
そこで思うのは、「みんな全然人の話聞いてないなー。」
ということです。
「じゃ、お前は人の話聞けてるのか」 と言われると、
そこは、うーん、どうなんだろう、と弱気になりつつも、
少なくとも、ぼくが仕事で”きく”ときには、
ぼくの命をかけて、”きく”ようにしています。
※「きく」という表記にしているのは、人の話を”聞く”
意外にも、聞いているじぶん自身がその場に”効く”ことや
怖さや不安をもちながら”訊く”こともあるからです。
”命をかけて”なんて言うと、ちょっと大袈裟に聞こえますが、
どんな言葉であれ、ひとが言葉を吐くときに載せているのは、
その人の存在そのもの、だと思っています。
「いや、そんなつもりないよ」
「軽くいうときもあるし」
と思う人もいるかもしれませんが、あることを軽く扱うなら、
軽く扱っているという存在が、その言葉にでているので、
そういうものも含めて存在がでているわけです。
で、軽く扱って問題がないものなら、ぼくも軽く応答する。
これは、軽いからダメとか、良い、ということじゃなくて、
例えば冗談を言い合ったりするときには、お互い軽さを認識しているので、
フワフワっと、楽しい感じになったりします。
ところが、一方が軽いつもりで放った言葉が、
受けとる方には”軽くじゃ済ませれない”、場合もあります。
そうすると、浅瀬でチャプチャプ遊んでいたような雰囲気に、
一瞬、急に水圧が高くなって深さが増したような”間”ができます。
”きいて”いると、なんとなく、その”間”が違和感として残ったり、
気になるときがあります。
そんなとき、ぼくは、場合によっては、
ちょっとした怖さや畏れを持ちながら、それでも”訊いて”みます。
※怖さや畏れは、その人の存在に近いところに
近づこうとしているから生じるのかな、と思います。
なので、相手の存在に敬意を払うには、じぶんが隠れたりせず、
存在を姿を”さらす”必要があるので、その感覚をもって
”命をかける”と表現しているのかもしれません。
このあたりの感覚は、年齢や経験を重ねていくと変化するのかな、
と思っています。
すると、ぼくが想像の及ばないようなところで、
例えば、何年も前に人から言われて傷ついたことがあるとか、
小さい頃に何とかがあったとか、そういう話をお聞きしたりします。
きれいに終わる場合は、それを聞いて、
「あぁ、そういうことだったのか。」という雰囲気になって、
なぜか、また軽い感じが戻ってきたりします。時には笑いつきで。
別になーんにも解決してないし、ただ、よく聞いて、
その場にいる人が、”話をした人”のことが、
ちょっとよく見えるようになっただけ。
でも、たったこれだけのことができない(見えない)から、
なんとなーく重さが残ったり、ちょっとずつコミュニケーションが
取りにくくなったり、組織の関係性が変化していったりします。
そういうことを、ぼくは非構成の場を経験して体感し、
じぶんが行く先々の組織で見てきたような気がします。
失敗して「ダメだこいつ」と思われたり、
成功しても「こいついなくても大丈夫だな」と思われたりしながら。。。
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