「じぶんを見てない相手」と「つながろうとするぼく」

公開日: 2014-10-20 日記

岐阜の友人の結婚式で撮った写真。
今回もやっぱり本文とは関係ありません。


つながりを持ち続けたくなることについて
以前書いたけど、継続して葛藤中。



客観的にみて離れたほうがいいはずなのに、
拒否ができないだけじゃなくて、
じぶんからつながろうとしてしまうのは
何でだろうと考える。

「つながり」求めているのは相手なのだ、
なんて言いながら、やっぱりぼくも
「つながり」を欲しているんだろう。


例えば、ダメな男と付き合い続ける女性の話とか、
虐待されている子どもが、傷つけられてもなお
親のことを求めるのと似ている。

相手がぼくのことなんか全く見ていなくたって、
「つながる」ことを求めてしまう。
そして、そこにあるのは、つながりを断つことが
「死」に直結するような感覚かもしれない。

だから、相手がどうで、じぶんがこうだ、
なんて分かったって、根っこの部分で恐怖がある。
いざ距離を置こう、と思っても「こんな妥協案がある」
とか、「こうしたらうまく付き合えるんじゃないか」
なんて、今まで生きる頼りにしていた思考が走り出す。

でも、この場合、やり方やアイデアでは
何も変わることはない。ポイントなのは
在り方、在り様、の話なのだから。

「じゃあ、どうしたら在り方を変えられますか?」なんて、
またも方法を考えるループに入りそうだけど、
「じぶんを見てない相手」と「つながろうとするぼく」
が見えたことで満足しとくのが今回の最適な着地点。
ということにしとく。

そんな場面に出くわした時、そのあたりを見ながら進めば、
方法はあとから出てくるんでしょう。


ちょっとした、じぶんへの鼓舞も含めて。

そうそう、今回の記事で使おうと思って調べたものの、
結局出すような話の流れにならなかったのですが、
失礼、無礼、非礼 という言葉の使い分け方って
初めてしりました。

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