無関係存在論

公開日: 2015-10-03 円坐・エンカウンターグループ


 「人間が自由になるとき、その者同士は図らいを越えて見事な調和を奏でることを知った。」(「studio CAVE 大阪 秋から冬の円坐 ご案内」より引用)

フェンスワークスの田中聡くんのこの言葉には、人間がたった一人の存在だということと、人が関係性を意識する集団だということが、表裏一体となって表現されている。

ぼくは、そのことから、人は自分の存在とは関係なく影響しあっている「無関係存在」だと、ここで書き記しておきたくなっている。

親鸞やクリシュナムルティの言うところの「一人」には、もともとその両方が含まれていて、今ぼくは、そうして誰かの言おうとしたことを違ういい方で言い直そうとしているだけなのかもしれない。

けれど、人と人が「無関係」に「存在」しているのにも関わらず、はからいを越えて影響しあう、というのは矛盾を含んだ論理的ないい方で気に入っている。

それを「愛」と呼んでも「慈悲」と呼んでも、「グレートスピリッツ」と呼んでも、なんでもいいけれど、日本列島に住む人が古くから「誰かに管理されたり、許可されたりしない、生き生きとした状態」を呼び現した「無縁」の状態になることが最初の一歩で、だからやっぱりその先に起こる「見事な調和」を「愛」とか「慈悲」という、人間の理解のおよびやすいものに変換するのは軽率な気もする。

グレートスピリッツとか、サムシンググレート、という呼び方には、少しそういった配慮が見られる気がする。


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