「おもひでぽろぽろ」感想 その1 無口なお父さん
小学生に1回、中学生でもう1回。
見るたび、あまりのつまらなさに途中で寝た記憶しかない。
澪ちゃんに紹介してもらわなければ、たぶん死ぬまで見なかったと思う。
でも、30を過ぎて3度目に見たときには、人生でいちばん好きな映画になっていた。
子どもの頃に何度も見た前半のシーン、パイナップルを食べるシーンとか、夏休みのラジオ体操のシーンとか、学校で男子と女子が話すシーンとか、までは見覚えがあって、今見ると雰囲気の懐しさや子どものやりとりの無邪気さが心地いい。
後半、田舎に着いてからのストーリーは、まったく覚えていないから、たぶん前に見たときはどちらも前半で挫折していたんだろう。
現実と記憶がリアルに交錯していて、監督の高畑勲は、人間の生きる世界をこの映画のように捉えていることが分かる。でもそれは、大人になったぼくには単なる作り話や、エンターテイメントの物語ではなく、じぶんの人生につながるような世界だった。
記憶の中の主人公のお父さんは無口で怖い存在として出てくる。でも、主人公は父親のことが好きだったことが伝わってくる。そして、父親も娘のことが好きだったことが伝わってくる。
それをいちばん感じたのは、一回だけお父さんが主人公に手を挙げた記憶が出てきたときだった。お出かけ前にすねて「やっぱり行かない」と言い出した主人公を呼びに来たお父さんはやっぱり口数が少なくて、でも、主人公が「行かない」と言ってから数秒の間、黙って娘を見つめたり目線を外して考えたような顔をする。
結局、その沈黙の時間のあとお父さんは「そうか」といって出て行って、追いかけて出てきた主人公が靴を履いていないのをみて手をあげる。叩かれて大声でなく主人公を無言で見つめるお父さん。。。ぼくは、このシーンを思いだすと「泣きじゃくる主人公を見ているお父さんはどんな気持ちだったのだろう。」という言葉が浮かぶ。
こんなことに思いをめぐらせているぼくは、すでにこの映画からはみ出してしまっていて、映画を見ながら自分の記憶も交錯しはじめているのに気付く。もちろん、必至にすねたり泣いたりしている子どもの自分には、父がどんな様子でぼくの記憶している現場にいたのかなんで分かるはずもないのだけれど、 今になって父親がどんな気持ちで生きていたのかを少し冷静に見れるようになった気がする。
こんなことが起こるような映画を、ぼくは他に知らない。
自分にも映画の主人公にも、起こった出来事は変わっていない。ただ、あるきっかけがあって子どもの頃の記憶がよみがえっただけ。でもその記憶は、大人になった自分の記憶で、当時は主観でしか見れなかった世界を別のアングルからもう一度見るような景色の違いがある。
なんてことはない、違うのはその景色の違いだけなんだけれど、違う景色から見た記憶はまるで大きな波のように世界を包んで、目の前の現実がゆっくりと変化していく。それは、季節が変わっていくように一瞬一瞬の変化は捉えられないもので、でもあるとき木の葉が真っ赤に染まっているとか、枯れた土地に草が生い茂っているとか、気付いたときには目の前に戻らない変化として迫ってくるような、そんな変化だ。
おそらく、このお父さんが手を挙げた記憶の再生が変化の始まりを告げていて、物語の終盤にその変化は押し寄せるように主人公を飲み込んで、現実が変わっていく。
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