純粋性を守る人としての円坐

公開日: 2016-02-05 円坐・エンカウンターグループ

こんど出す雑誌というか冊子に載せる原稿の締切が2月1日だった。編集者のフィードバックを恐る恐る受けて、今はその修正を残すだけ。


締切というのは期限を決めることで、20代に仕事をしていた時には、そこから受ける圧力だけが「締切」という言葉の感触になっていた。

今回の締切からも圧力は受けていたのだけれど、なんというかただただ「締切」という意味だけしかなくて、それは純粋な締切で、心地が良かった。そうすると、その圧力の中でしか書けない言葉があることに気がついて、締切というのがちょっとありがたく思えてくる。


円坐の中でぼくが言葉にこだわるのも、話すことや聞くことに、別の何か(たとえば、効率や役に立つやりとりがいいとか、感動するような話が良いとか、学びや気付きが多いものが良いとか、一人一人の存在がよりはっきりするようにとか)をくっつけて見たり感じたりするのではなく、純粋にその空間の中であらわれた言葉として受け取りたいからなのだと思う。

純粋な「話すこと」や純粋な「聞くこと」がなされる場はざらにはない。どれだけ自由に話せる場だとしても、人間関係や利害がくっついてくる。それ自体は、良いとか悪いとかではなく、ただそうなっているということなんだけれど、あえて目的やテーマを置かずに人が集まる場を作るのなら、できるだけその場にいる人以外のなにかがくっついていない純粋なやりとりを見てみたい。

もちろんぼくにだって、いろんななにかがくっつきまくっていて、それはくっついている由縁のあるものばかりで、そういうものは誰かから言われてはじめて分かる。それがポロポロと見つかってはとれていく、とれていくというか、自分と一つになるのかもしれない。


たとえて言うなら、文学作品のように、そこで表現される言葉がただそのようにあらわれたものとして流れていく、そんなふうになる場を見守っているのが守り人なんだろうと思っている。
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