4/29-5/1 東京 けんちゃんの円坐 やります。

公開日: 2016-03-04 企画の案内

じぶんでやるのに「けんちゃんの」ってちょっと恥ずかしいけど、やります。

さとしとじゅんちゃんとは「ゆくくる」という名前をつけて、東京と大阪を行ったり来たりしながら、いろんな企画をしたりしながら時間を過ごしてます。

去年の5月に行った時の様子はこちらから。
「ぼくの東京物語」

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ぼくは人というのがどれほど、醜く、愛おしく、救いがたく、美しく、
最低で、最高なのかを円坐の中ではじめて知った気がする。

たぶん、そういうものを運んでくる「何か」は人によって違っていて、
ある人にとってそれは音楽で、別の人にとっては文学作品だったり、
またある人には絵画だったりするのだろう。

ぼくには円坐がその横に並んでいるように見える。

「人と人が集まって話をするだけなのに?
そんなこと、家庭や職場でも飽きるほどやってるよ。」

気晴らしに音楽を聞いたり、暇つぶしに小説を読んだり、
見学がてら絵をみる程度のことは、誰だってしているように、
暮らしのための話や、何かをつくるための関わりは、
だれだって、どこでだってしている。

けれど、ぼくたちはこれまでに、
言葉を聞く以外に何もない時間を過ごしたことがあっただろうか?

それは、
「ただきく」ことでしかその音楽を味わえないことや、
「ただ読む」ことでしかその文学を味わえないことや、
「ただ見る」ことでしかその絵を味わえないことと似ている。

ぼくたちは、
ただ見聞きすることでしか眼の前にいる人を味わうことはできない。

でも現代は、あまりに忙しくて立ち止まることさえ難しい。
少し足を止めてその音に耳を傾けることが、
少し手を休めてその文章に浸ることが、
少し目を留めてその絵を見つめることが、難しくて動き続ける。

そして、じぶんの言葉に耳を傾けることさえしなくなる。

立ち止まって最初に見聞きすることで最初にあらわれるのは、
そうやって今まで耳を傾けて来なかった自分だったりする。

人はただ静かに目耳を凝らすことでしか自分を味わうことはできない。

円坐は、そうやって目耳を澄まさなければ見られない自分の営みを、
人と人の営みを、もう一度確認する場だ。守人としてのぼくは、
場を開くものとして、力の及ぶ限りただ目耳を澄まして坐ります。

小林健司

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こんにちは。中尾サトシです。

来年(2016年)の4月29日(金)~5月1日(日)の3日間。
大阪の友人、小林健司さん(けんちゃん)と一緒に宿泊形式の円坐をひらくことになりました。

「東西ゆくくる2016(春)」の企画のうちの一つです
https://www.facebook.com/events/182278215476801/

2015年は、本当に円坐って面白いなと実感した年だったけど、円坐が面白かったのか、円坐に来た人たちが面白かったのか。どっちもかな。そこに集まった人たちの面白さが円坐という型を通じて場に出て来てるのだと思うけど、例えば、「鍋っていいよね」って言ったときに、鍋っていう料理がいいっていう意味もあるし、実際に食べた鍋(の具や味)がいいっていう意味で言ってるのと近いかも。そうなると守人は鍋奉行ということか。

なんだか言いたいことがうまく言えない。

僕はけんちゃんが守人をする円坐はすごく面白いと思っていて、円坐自体が面白いし、どんな円坐もいろいろな形で心に残るのだけど、やっぱり守人次第で雰囲気も展開も質感も変わるし、味わいも変わる。同じ具材を集めても料理の仕方で全然違う味わいになるように、同じ人たちで集まっても、守人が持つ何か(かかわり方、考え方、言葉づかい、雰囲気、動き、表情、などなど)の影響で、円坐も全然違う味わいになる。

円坐が料理だとしたら、僕は基本的には円坐が大好物だけど、好みの味付けの円坐もあれば、苦手な味付けの円坐もある。(そんなに無いけど)

けんちゃんが守人をする円坐は、僕としてはかなり好みの円坐だなと思っていて、どの辺が好みかっていうのはなかなか言葉にしづらいんだけど、なんだかクセになるというか、また行きたくなる感じ。こここそちゃんと言葉にしないと全然案内にならないと感じつつ、これぐらいしか言葉にならないはがゆさ。

まだ4ヵ月あるので、じっくり言葉にしながらじっくりお誘いしていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

      けんちゃんの円坐ファン 中尾サトシ


鍋のダシって、、、まだまだです。

      お鍋修行中 じゅん



日程:2016年4月29日(金)~5月1日(日)2泊3日
   開始予定:4/29(金)13:30 受付は13時より。 
   終了予定:5/  1(日)17:00

流れ:【1日目】
     13:30〜15:30 1つ目の円坐
     15:30〜16:00 休憩
     16:00〜18:00 2つ目の円坐
     18:00〜19:30 食事・休憩
     19:30〜21:30 3つ目の円坐
     21:30〜     入浴・就寝

   【2日目】
     9:30〜12:30 4つ目の円坐
      12:30〜14:00 食事・休憩
      14:00〜17:00 5つ目の円坐
      17:00〜19:00 食事・休憩
      19:00〜21:30 6つ目の円坐

   【3日目】
     9:30〜12:30 4つ目の円坐
      12:30〜14:00 食事・休憩
      14:00〜17:00 5つ目の円坐
      17:00〜     解散
    
場所:代々木付近の会場

人数:10名

参加費:30,000円(宿泊費・食費込み)

守人(ファシリテーター):小林健司

坐る人:中尾サトシ、小林直子、中尾絢子

※会場について
 宿泊は同性での相部屋となります。円坐の会場と宿泊棟は分かれていて、円坐終了後に各自の部屋に移動します。トイレとお風呂は共用となります。(お風呂は大浴場です。その他、詳細はお申し込みいただいた方にお送りいたします。


 
【聡志より追加の案内】
この言葉を書いた頃は、まだ4ヶ月あるなと思っていたけど、気づけばもうあと1か月。じっくり言葉にすることはたいしてできずにここまで来てしまいまし た。今思えば、4ヶ月もかけてじっくり言葉にするなんてことはそもそもできない。じっくり言葉にするというのは、実際に言葉にしているときだけ「じっく り」言葉にできる。今みたいに言葉を書いてるときだけ、本当に「じっくり」言葉にできる。「4ヶ月かけて」「それができる」と思ってたのは僕の妄想と勘違 いでした。
 
同じようなこととして「丁寧に生きていきたい」とか「自分に素直に人と関わりたい」とかも、ふと気づけば全然「できてなかった」ということになりかねない 言葉だなと思いました。おそらく僕が円坐という場に身を置くのは、本当に「丁寧に生きる」ことや「自分に素直に人と関わる」ことを試みるためなのだと思い ます。そうしないと僕はそう「できない」。この3ヶ月間じっくり言葉にすることをしなかったように、場を設定しなければ僕は日々の中で「こうしたい」と 思っていることを実現させることができない。
 
以前「なぜ円坐をひらくのですか?」と聞かれたことがあって、その時出てきた言葉は「僕にとって必要だからなのかなと思っています」でした。たぶんその言葉の後ろには、今日言葉にしたようなことがあったのだと思います。
 
僕は、円坐のような場がないと、じっくりとか、丁寧にとか、素直にとか、真剣にとか、誤魔化さずにとか、そういう自分とある種向き合うような姿勢を、毎日 の中で取ることが出来ないと思っていますが、円坐のような場で経験した実感、自分の感情、感覚、動き、自分の身体に残ったもの、響いたものが、円坐が終 わったあとも、毎日の中で思い出されたり、滲みでたりすることはあると思っています。

      でも滲みに気づくのは他人だけ 中尾聡志
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