「本当の自分」なんてない。「雲のような自分」ならある。
公開日: 2016-04-24 日記
レンズのゴミかと思ったらなんか飛んでる。 |
4年前のぼくは
ほとんど他人と言っていいほど今のじぶんと違っていて、
そのころに書いた記事を読み返すと、
だからとても良く知っている人の日記を読むような面白さがある。
宗教でもNPOでも組織が効率を求めるときに起こる人間疎外
ぼくは、生きる手応えが欠乏して過ごした時間の分だけ、
埋め合わせられるような何かが必要になっていて、
埋め合わせの最たるものがゲームだった。
生きている手応えが欠乏していない時間しかなければ
もちろん埋め合わせは必要なくて、だから
今はそういう時間が多いからゲームに興味を持てなくなった。
でもこの「生きる手応え」っていうのを感じることは
雲をつかむようなもので、なぜなら、
ぼくはじぶんが何をしたいのか、何に手応えを感じるのか、
ということを予め予想することができないから。
「本当の雲の形」なんてものがないように、
「本当の自分」とか「じぶんの本性」なんてものはなくて、
せいぜいぼくにできるのは、その瞬間瞬間のじぶんの形を
行動とか言葉によって表現をする程度のことだと思う。
4年前のぼくが警戒している
夢とか目標とか使命(ミッション)という言葉は、
そういう雲みたいな自分の形を、固定したり
そこまでじゃなくても一定の方向にしか変化できなくなるような
可能性を含んだ概念だから。
いつでも夢や目標を持って生きていいし、
いつだってその夢や目標をポイしてしまってもいい。
視点をそこまで持っていけば、一定の方向性を持つことさえ
変化し続ける自分にとっての変化の一つなんだけど、
ぼくの育ってきた時代や環境が、
方向性を持つことに強い拘束力を感じるようにしてたらしい。
確かに見えるじぶんらしさっていうのはだから、
そうやって瞬間瞬間を表現し続けた足跡から読み取れる。
といっても、それは過去を類別したり分析した結果、
「そう読める」という判断があるだけで、
次に踏み出される一歩とは全く関係のないことなんだけど。
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