さとり系ショートコント「言葉なんかじゃ伝わらない」
公開日: 2016-05-20 お笑い
A「・・・・・・」
B「どうしたんだよ?」
A「・・・・・・・」
B「なんか言えよ」
A「・・・・・・・」
B「言わないとわからないだろ!」
A「・・・・・・この気持を言葉にすることなんか・・・できない。」
B「な、なんだよ・・・」
A「・・・言葉なんかじゃ伝わらないんだ!」
B「そ、そうか・・・悪かったな。無理に言わせようとして。」
A「・・・って、なんか伝わっちゃってるよ!」
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こういうのを解説するのは
本当に野暮なことだな―と思いますが、
第一回目なので少しだけ。
(といいつつ、二回目以降もするかも。)
「全てのものは、一つである」に始まり、
禅とか瞑想とか仏教で言われていることって、
矛盾を含んだ言い方をすることが多々あります。
「だから宗教的なものは分からない」
という立場もあることを知ってますが、
僕自身は、そういう矛盾を含んだ言い方でしか
世の中の真理を言い表せないのだと思っています。
といっても、これを真面目に言っていくと
哲学のようになってしまってとっつきにくい。
まぁ別にとっつきにくくてもいいんですけど、
そういう硬い形での表現は既に「言語」という
紙面上で試みているので、ブログについては、
真逆のアプローチをしても面白いな、と思って
浮かんだのが「お笑い」でした。
そもそも「笑い」というのは・・・・
なんて語っていくと、また硬い方へ逆戻りなので、
すごく簡単にいえば、
人は矛盾やズレを感じるとなぜか笑ってしまう生き物で、
いわゆるお笑い芸人は、そういったギャップを見事な
腕前で作り出しているなーというのがぼくの見方。
だから、矛盾やズレを訂正したり解決したりせず、
そのままの形で受け入れる。というか笑いとばして終わり、
というのは人間特有のめちゃくちゃ平和な行為であり、
「ていうかそれって、禅であり仏教であり瞑想じゃん。」
という発想から、
本当にに悟り的なことを語って伝わるのは
お笑い形式なんじゃないか、という実験です。
で、ここまでで解説にもなっていないことに気づき、
長いですけどもう少し。
少し前に、「言葉には限界がある」というフレーズの
面白さについて考えたことがありました。
これって言葉以外の、たとえば「かなづち」とかだと
「そりゃかなづちでできることには限界があるよね。」
となんの矛盾もなく流れていくのですが、
「言葉」に「限界がある」ことを「言葉を使って」
言ってしまっているところに、矛盾というかズレがあって、
言葉以外ではこういう現象は起こらないんじゃないでしょうか。
この言い方はすごく難しくて、「言葉」と入れていると
限りなく自然に聞こえるのですが、
ちょっと抽象的にして、
「A」というものに限界があることを、
「A」を使って表現するような現象、としたらどうでしょう?
さらに、たとえば、
「かなづち」に限界があることを
「かなづち」を使って表現する、と言った場合、
なんのこっちゃ分からないような、想像できなくてむずがゆいような、
気持ち悪さのようなもの、を感じるのですが、
言葉の場合は、案外スムーズに聞こえます。
試しに、音楽、絵画、本、携帯、筋肉、時間、などの
外の言葉をランダムに入れていっても、むずがゆさは変わりません。
もちろんここで言っているのは、
「今までになかった表現」という意味の限界ではなく、
そのもの自体の限界を端的に表現するような現象で、
言葉だけが、やすやすと不自然さを免れています。
もちろん言葉であっても、
自分自身で自分の限界を表すことはできないのですが、
それは限界を示すことによって、
他の表現では超えられない限界を突破するという、
言葉の限界の無さを示してしまうという矛盾的な現れ方をします。
自分の限界を知った時に、限界を突破している、
というのは、これまた禅や仏教のようなお話な気もします。
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