吉本隆明 心的現象論メモ 沈黙とは
公開日: 2016-05-22 言葉の研究
表現としての言語は、心的な現象としてみれば、ただ〈概念〉のこちら側にむかってのみ自己表現をとげようとする傾向にある。(中略)言葉にならない言葉を、ある瞬間にわたしたちが感じたとすれば、これは心的にただ〈概念〉に向かって言語がその本性をなしとげようとしているからである。
また〈他者〉との対話の中で、なにかいおうという心的な状態が兆しながら、その瞬間を逃したとき、いうことは空しいと感じて、緘黙をまもったとしたら、かれはただ〈概念〉にむかって自己表現をとげたままたちどまったのである。(中略)結果的に確実なのは、かれがこのとき規範としての言語にまったく服しなかったということである。話したり書いたりすることは、いずれにせよ規範としての言語を受容することだからである。[153]
ほぼ日の講演アーカイブで、
「沈黙は言語の幹」(言葉は言語の葉っぱ)
と言っていることは知っていたけれど、
吉本隆明の言語(という概念)を扱う手さばきは
惚れ惚れするほど鮮やかで熟練している。
沈黙している人に
「あなたは規範としての言語に全く服しなかった」
って言ってみたい。
最近まわりに「モゴモゴ族」と自称する、
「言葉にするのが苦手な人たち」が現れて、
少し前から、そういうスラスラと言葉にしない人たち
(そう、そういう人たちに対してぼくは、慎重さを伴った
ある種の意思を感じていて、”できない”というより、
”しない”というほうがしっくりくる)
に感じていたことを、吉本隆明が沈黙について書いた文章は
鋭く描写している。
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