存在という響きから生れる言葉

公開日: 2016-05-23 言葉の研究


以前、文字と声の違いについて書いたけれど、
その後の進展があって、
そのラフスケッチのようなものを書いておく。

まず、「音声」というように、
当たり前だけど、声は音だ。

この音であるということが、
文字であることと決定的に違う。
(これもあたり前だけど。。。)

だからぼくらは同じ言葉を使っても
違ったニュアンスになることを知っていて、
たとえば愛情を込めて柔らかく「ばかやろう」
というのと、憎しみを込めて「ばかやろう!」
というのでは、全く違うことはすぐに分かる。

この現象を極端におしすすめると、
究極的に使われる言葉はなんだっていいことになる。

言葉の通じない海外で騙されそうになり、
とにかく夢中で日本語で怒ったら
(日本語が分かるはずのない)相手がシュンとした。
という話を何人かから聞いたことがあって、
僕自身もそういう体験を海外でしたことがある。

このとき伝わっているのは何か。
すごくかいつまんだ表現をすれば、
それは「怒り」の「響き」だと言えるはずだ。
(これは今のところ、響きでも、メロディー でも、
旋律といってもかまわない。)

この状況はさらに極へとおしすすめることができる。
先ほどと同じシチュエーションで、
同じように「怒り」の感覚を持っているとして、
黙ったまま、相手を見るだけで、伝わるものがあるはずだ。

そのときまだ、その感覚は「響き」や「旋律」として
世界に振動を起こしていないが、
ある一人の肉体の中で「ふるえ」が発生している。

伝わっているのはこの「ふるえ」であり、
この観点から見れば、ぼくらは音叉のように、
響きあうように存在している。

人の形をした楽器が「響存」(きょうぞん)している
という表現をしてもいい。
(調べると「響存」という言葉は1950年代に既に
鈴木亨という方が概念として提示しているらしい。
本を買いたいけど、ちょっと高いので迷ってます。。 )

「音である」ということが意味しているのは、
この「ふるえ」までが射程に入っているということで、
これが、世界に現れた(残された)言葉”だけ”が
表現だとすらいえる文字の世界との分岐点だと言っていい。
(といっても、文字をほんとうの意味で「読む」場合、
この「ふるえ」を捉えることまでが射程に入っていて、
けれどそれは全く別のアプローチなので、やはり、
決定的に「読む」ことと「聞く」ことは違う行為だと言える。)

もう一歩この「ふるえ」の奥側に想定しなければならないのは、
振動を形成するために必要な時空間で、
なにもない所で振動だけが突如として発生するとは考えにくい。

そして、その時空間こそが、人の意識であり、
心的な領域ともいえる世界のことだ。

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