言語大学 講義録 その2 「LET'S 言語 一」(脱線して日本語論)
公開日: 2017-04-03 言語大学講義録
その1 「矛盾の最短ループ」 はこちら
はい。
今週も授業をはじめていきます。
LET’S 言語!
キョトンとしないで、みなさんも。
腕はこう、真上に上げる感じで。
はい。
LET’S 言語!
これ、別にぼくだって
やりたくてやってるわけじゃないんです。
はい、出ていかない。
入る教室、間違ってません。
先週やったのは「矛盾の最短ループ」です。
次、言わなかったら欠席とみなします。
はい。いきますよ。
腕はこうね。
せーの。
LET’S 言語!
ということで、はじまりました。
じぶんでやったことながら
みなさんの視線が痛いです。。。
あ、これ別に、
毎回やってくわけじゃありませんよ。
今日だけです。
だってシラバスにも書いてあるんですよ、
これ、ここ。
「基礎言語論」第二講「LET'S 言語」って。
ね。
なので、今日は予定通り、
この口にだすのも恥ずかしい
「LET’S 言語!」
というフレーズを土台にして授業していきます。
さて、いきなりですけど、
さっき恥ずかしかった人、
挙手おねがいします。
ですよね。
いやぼくもですよ。
というか、
ぼくの場合なんかいろんなプレッシャーとか
「もっと違う授業の入り方あるんじゃないか」
って後悔やらが入り混じってもっと複雑でした。
まあ、それは置いておいて、
そう、これ言うの恥ずかしいんですよね。
ではこれ、
なんで恥ずかしいんでしょうか?
ということを考えていく中で、
言語について学んでみようじゃないか、
というのが今日の趣旨です。
ちなみに、今の時点で、
何で恥ずかしいのかについて、
ちょっと言ってみようかなと言う人いますかね?
はい。山下さん。どうぞ。
あぁー。テレビのね。
いわゆるクイズ番組とかでよくありますよね
やってみよう!的な。
あれ、こんな授業で、しかもなんのセットもなく、
とくに盛り上がる理由もないのに、
たしかに普通は言わないですよね。
もしかしたら、言うのが自分一人かもしれない。
というのもリアルでいいですね。
今言ってくれたことを、
これから説明したいことと絡めると、
言語の持っている身体性となります。
じゃあ、それを話していくためにまずは、
この言葉を一つ一つ見ていってみましょう。
と言っても、
今ぼくたちの前にあるのは
「LET'S」と
「言語」 という二つの単語だけなんですが(笑)
ともかく一つずつ、ね。
さて、
LET’S というのはもちろん英語ですね。
「さあ」とか「一緒にしよう」とか、
まあ、だいたいそういう意味です。
で、これに「言語」がくっついている。
言語、というのは、あたり前に使ってますが、
実はこの単語ができたのは明治時代の日本だと
されています。意外に新しいんですね。
ちなみに、こういった
英語と漢字を組み合わせて
当然のように使うようなはたらき、
つまり、取り込んだり混ぜたり、
というようなはたらきは、
言語自体が持っている大きな特徴ですが、
中でも日本語は、
他の地域の言葉を混ぜ合わせて使うのが
得意な言語だといえます。
言語と人の意識とは関連してますから、
なんでもかんでも取り入れて消化して、
自分の身体の一部とすることで、
結果的に独自なものになっている、
というような日本語の特徴は、
そのまま日本語を扱う人の特徴でもあって、
宗教、科学、社会、文化、もうあらゆるものが
そういった日本語的な意識の認識の仕方を反映しています。
で、さらに今、
たまたま説明で出てきましたが
「宗教、科学、社会、文化」
というのも、
明治期に欧米の本を翻訳するときに
新しく作られた言葉だとされています。
それ以前の日本には、
概念をそのまま表す言葉が少なく、
反対に西欧では概念を取り扱う言葉が多かった。
そういうわけで、
明治の人たちが西洋の本を翻訳する、
あるいは単純に読もうとするときでも、
どうやって日本語の中にない概念的な言葉を
理解したり表すのかということに
苦心することになるわけです。
なのでおそらく、作られた当時は
例えば「社会」という言葉なんかでも、
「聞きなれない変な言葉を使いやがって」
という印象を与えていたと思われます。
今では、いわゆるカタカナ語というのも
かなり耳慣れてきてますのが、
それでも、「ソリューション」とか
「コンピテンシー」なんて言葉を
いきなり使われると、
ちょっと鼻につくというか、
普段から使い慣れてないと
一瞬「えっ?」 ってなりますよね。
「社会」という言葉も出来た当時は
そういうような言葉だったと想像して下さい。
今あたり前に使っている言葉が
そうではなかった時代がある、
というのは不思議ですよね。
でも、そういう一見なんでもないけれど、
ものすごく大きな変化を生み出すというのが、
人の意識と結びついた言語の営みの
もっとも面白いところなんです。
さらにおまけでもう一つ言うと、
今は他の地域から入ってきた言葉を
あつかって話してますが、
同じ地域でも時代を経るだけで
使われる言葉は少しずつ変化していきます。
こういった、新しい言葉を生み出して、
その言葉がいつのまにか「死語」 になって
という循環を繰り返しているのが
個人を越えた大きな視点での言語の営みで、
日本語というのはこういう現象が
かなりのスピードで起こっている言語だと言えます。
・・・えーと、、、なんの話でしたっけ??笑
ちょっと寄り道のつもりが
結構な距離をきてしまいました。笑
あぁ、そうそう。
ありがとうございます。
「Let’s 言語」でしたね。
では、本道に戻って、
「Let’s 言語」と、
その恥ずかしさと、身体性の話をしていきましょう。
(つづく)
はい。
今週も授業をはじめていきます。
LET’S 言語!
キョトンとしないで、みなさんも。
腕はこう、真上に上げる感じで。
はい。
LET’S 言語!
これ、別にぼくだって
やりたくてやってるわけじゃないんです。
はい、出ていかない。
入る教室、間違ってません。
先週やったのは「矛盾の最短ループ」です。
次、言わなかったら欠席とみなします。
はい。いきますよ。
腕はこうね。
せーの。
LET’S 言語!
ということで、はじまりました。
じぶんでやったことながら
みなさんの視線が痛いです。。。
あ、これ別に、
毎回やってくわけじゃありませんよ。
今日だけです。
だってシラバスにも書いてあるんですよ、
これ、ここ。
「基礎言語論」第二講「LET'S 言語」って。
ね。
なので、今日は予定通り、
この口にだすのも恥ずかしい
「LET’S 言語!」
というフレーズを土台にして授業していきます。
さて、いきなりですけど、
さっき恥ずかしかった人、
挙手おねがいします。
ですよね。
いやぼくもですよ。
というか、
ぼくの場合なんかいろんなプレッシャーとか
「もっと違う授業の入り方あるんじゃないか」
って後悔やらが入り混じってもっと複雑でした。
まあ、それは置いておいて、
そう、これ言うの恥ずかしいんですよね。
ではこれ、
なんで恥ずかしいんでしょうか?
ということを考えていく中で、
言語について学んでみようじゃないか、
というのが今日の趣旨です。
ちなみに、今の時点で、
何で恥ずかしいのかについて、
ちょっと言ってみようかなと言う人いますかね?
はい。山下さん。どうぞ。
あぁー。テレビのね。
いわゆるクイズ番組とかでよくありますよね
やってみよう!的な。
あれ、こんな授業で、しかもなんのセットもなく、
とくに盛り上がる理由もないのに、
たしかに普通は言わないですよね。
もしかしたら、言うのが自分一人かもしれない。
というのもリアルでいいですね。
今言ってくれたことを、
これから説明したいことと絡めると、
言語の持っている身体性となります。
じゃあ、それを話していくためにまずは、
この言葉を一つ一つ見ていってみましょう。
と言っても、
今ぼくたちの前にあるのは
「LET'S」と
「言語」 という二つの単語だけなんですが(笑)
ともかく一つずつ、ね。
さて、
LET’S というのはもちろん英語ですね。
「さあ」とか「一緒にしよう」とか、
まあ、だいたいそういう意味です。
で、これに「言語」がくっついている。
言語、というのは、あたり前に使ってますが、
実はこの単語ができたのは明治時代の日本だと
されています。意外に新しいんですね。
ちなみに、こういった
英語と漢字を組み合わせて
当然のように使うようなはたらき、
つまり、取り込んだり混ぜたり、
というようなはたらきは、
言語自体が持っている大きな特徴ですが、
中でも日本語は、
他の地域の言葉を混ぜ合わせて使うのが
得意な言語だといえます。
言語と人の意識とは関連してますから、
なんでもかんでも取り入れて消化して、
自分の身体の一部とすることで、
結果的に独自なものになっている、
というような日本語の特徴は、
そのまま日本語を扱う人の特徴でもあって、
宗教、科学、社会、文化、もうあらゆるものが
そういった日本語的な意識の認識の仕方を反映しています。
で、さらに今、
たまたま説明で出てきましたが
「宗教、科学、社会、文化」
というのも、
明治期に欧米の本を翻訳するときに
新しく作られた言葉だとされています。
それ以前の日本には、
概念をそのまま表す言葉が少なく、
反対に西欧では概念を取り扱う言葉が多かった。
そういうわけで、
明治の人たちが西洋の本を翻訳する、
あるいは単純に読もうとするときでも、
どうやって日本語の中にない概念的な言葉を
理解したり表すのかということに
苦心することになるわけです。
なのでおそらく、作られた当時は
例えば「社会」という言葉なんかでも、
「聞きなれない変な言葉を使いやがって」
という印象を与えていたと思われます。
今では、いわゆるカタカナ語というのも
かなり耳慣れてきてますのが、
それでも、「ソリューション」とか
「コンピテンシー」なんて言葉を
いきなり使われると、
ちょっと鼻につくというか、
普段から使い慣れてないと
一瞬「えっ?」 ってなりますよね。
「社会」という言葉も出来た当時は
そういうような言葉だったと想像して下さい。
今あたり前に使っている言葉が
そうではなかった時代がある、
というのは不思議ですよね。
でも、そういう一見なんでもないけれど、
ものすごく大きな変化を生み出すというのが、
人の意識と結びついた言語の営みの
もっとも面白いところなんです。
さらにおまけでもう一つ言うと、
今は他の地域から入ってきた言葉を
あつかって話してますが、
同じ地域でも時代を経るだけで
使われる言葉は少しずつ変化していきます。
こういった、新しい言葉を生み出して、
その言葉がいつのまにか「死語」 になって
という循環を繰り返しているのが
個人を越えた大きな視点での言語の営みで、
日本語というのはこういう現象が
かなりのスピードで起こっている言語だと言えます。
・・・えーと、、、なんの話でしたっけ??笑
ちょっと寄り道のつもりが
結構な距離をきてしまいました。笑
あぁ、そうそう。
ありがとうございます。
「Let’s 言語」でしたね。
では、本道に戻って、
「Let’s 言語」と、
その恥ずかしさと、身体性の話をしていきましょう。
(つづく)
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