お金のとらえ直し
ここのところ、ゆくくるだとか、無料のたまり場「かっちぇて」とか、さらにはFacebookで坂爪圭吾さんという方の「衣食住が無料の家」の構想なんかも読んで、妙に頭が冴えていた。
いろいろお金について考えた時期もあったし、生きてく中でいろんなことを捉え直ししてきたから、今さら考えることもない気がしていたけど、やっぱりぼくはお金についてなんにも分かってないぞ、という気分になった。
というより、家とか結婚とか暮らしにまつわることはいろいろと捉え直しが起こったけれど、参加費とか申込とか、従来のお金に関係するような構造についてだけ、不自然なくらいなんの変化もないままだなー、変だなーと思うようになった。
で、やっぱり基本に立ち返って、ぼくとしては言語の捉え方からいくのだけれど、言語的に見れば、物質にしろ精神にしろ、人が「共通」して認識しているものは、実は一人一人捉え方が違っていて、「一致」とは違う、というのが超々重要なポイントとして以前に発見したことだった。
「共通」っていうのは、99%が違っていても、1%通じるところがあれば「共通」と言えてしまう。あるいは99%は同じでも、1%違っていることでも「共通」の認識として通っていく。で、それは実体とは何の関係もない。(というか実体なんて認識できない、ということが続くのだけれど、込みいるのでカッコ書きで。)
で、そういう視点から見直してみると、当然、お金っていうものも実体なんてない、ただの「共通」の認識なんだということに気がついて、あれまあそんな簡単なことだったのかと拍子抜けしたのでした。
※1ただし、この「お金」っていうものの共通認識の特徴は、あらゆるものと関係できちゃう、あらゆるものの認識を肩代わりできちゃうところにあって、そいつがややこしい。
自然の(経済的な)価値、なんてのは序の口で、人の心や身体ですら「価値」をもとにして「マネジメント」するのが今の時代。さらには、親切とかお互い様、なんていう領域の、人と人の関係性まで貨幣に変換されている。(そういう、これまで貨幣に置き換えられなかったものを積極的に置き換えていく働きを担っているのが、いわゆる「非営利組織」というカテゴリーの人たちだということは興味深い。)
お金がいつ発明されたのか知らないけれど、お金を牛耳る悪の組織がいるのかどうかも知らんけど、でも今や「お金」はあらゆることに関係を持っている。
なのでそういう現代の日本で生きる人にとっては、自分が生きることとお金は直結しているような認識になる。
けれど、それは錯覚。よくできた錯覚。
お金がないことと、死ぬことには、直接的な関係はない。
お金と生きることも関係がない。
けど、お金少なくなると怖いと思う人が多いのは、食べること(水道光熱費含む)、寝ること(家の家賃)、人と会うこと(交通費、通信費)、およそ、じぶんが意識を持って行動することの全てに対して、お金を支払うことがセットになっているから。
お金がないと、食べれなくなる。→怖い→最悪死ぬ
お金がないと寝れない。怖い→最悪死ぬ
お金がないと人と会えない、連絡取れない→怖い→最悪死ぬ
というつながりが、自動的に発生するから錯覚が成立してる。
※2これ、ほんとにそうか?
と一度考えるだけでも、あんがい嘘だということは分かる。
※3ところが、お金とお金にまつわる認識ってのは、もう見事なもので、実際に動いて確かめるということも怖いくらいにリアルな認識を作っている。
そういう背景から、「お金のこと全部とっぱらってしまったらどうなるか」を試しているのが坂爪さんなんだなーと思っていて、突き抜け方がかっこよくて憧れる。
だからってぼくは他の人のようには慣れないことも、さすがによくよく分かってきていて、もちろん経済そのものが悪いわけでもなくて、これを書きながら要は、お金をどの程度自分の生活に取り入れて暮らすのかってことなのだと思うにいたった。
なにものかになりたいけれど、カッコよさに憧れるけれど、どうしたってぼくが向くのは、ぼくにとっての「普通」の感覚の中で何をするのかにしかならなくて、こうしてバカ真面目に言葉を綴っている。
※1 お金の万能感の構造
もっと分かりやすく直接的なことを言えば、お金で買えるものが増えるほど、お金の万能感が高まる。ということ。たとえば「ラグジュアリー」なモノやサービスを(テレビや新聞などで)「ある」と思わせることができれば、それを持っていない人には自動的に「ない」が生じる。この欠損としての「ない」を埋めるには、お金が必要だ。ということが、生活のあらゆるシーンで起これば、これはもう、つまり、豊かさとは「お金が多いこと」でしかない。(所属や肩書、社会的地位などは、そうしたお金によって計られる価値のものさしに付随して、あるいはお金を得る手法と量の総体として、「社会」にとって通りのよい共通の価値を帯びていく。[もしくは、単純な認知度の高さによって。])
※2 「お金がないと死ぬは本当か」の確認
このあたりのこと、坂爪さんのブログを読むと、見事に一つ一つ確かめていってくれていて、見事だなーと思う。
※3 リアルにしか思えない錯覚について
分かりやすいのは、USJのハリーポッターとか、スパイダーマンみたいな、映像と乗り物で、本当に空を飛んでる感じになったり、爆発したものが迫ってくるような感覚をリアルに感じるアトラクション。
あれ、ぼくが乗った時にたまたま、故障でスクリーンの映像が消えたことがあって、一瞬ちょっと、あっけにとられました。そこにはただの灰色の壁があって、さっきまで「うわー」とか「怖えー」とか言ってたのが、恥ずかしくなるくらいに、ただの壁とレールがそこにありました。
いろいろお金について考えた時期もあったし、生きてく中でいろんなことを捉え直ししてきたから、今さら考えることもない気がしていたけど、やっぱりぼくはお金についてなんにも分かってないぞ、という気分になった。
というより、家とか結婚とか暮らしにまつわることはいろいろと捉え直しが起こったけれど、参加費とか申込とか、従来のお金に関係するような構造についてだけ、不自然なくらいなんの変化もないままだなー、変だなーと思うようになった。
で、やっぱり基本に立ち返って、ぼくとしては言語の捉え方からいくのだけれど、言語的に見れば、物質にしろ精神にしろ、人が「共通」して認識しているものは、実は一人一人捉え方が違っていて、「一致」とは違う、というのが超々重要なポイントとして以前に発見したことだった。
「共通」っていうのは、99%が違っていても、1%通じるところがあれば「共通」と言えてしまう。あるいは99%は同じでも、1%違っていることでも「共通」の認識として通っていく。で、それは実体とは何の関係もない。(というか実体なんて認識できない、ということが続くのだけれど、込みいるのでカッコ書きで。)
で、そういう視点から見直してみると、当然、お金っていうものも実体なんてない、ただの「共通」の認識なんだということに気がついて、あれまあそんな簡単なことだったのかと拍子抜けしたのでした。
※1ただし、この「お金」っていうものの共通認識の特徴は、あらゆるものと関係できちゃう、あらゆるものの認識を肩代わりできちゃうところにあって、そいつがややこしい。
自然の(経済的な)価値、なんてのは序の口で、人の心や身体ですら「価値」をもとにして「マネジメント」するのが今の時代。さらには、親切とかお互い様、なんていう領域の、人と人の関係性まで貨幣に変換されている。(そういう、これまで貨幣に置き換えられなかったものを積極的に置き換えていく働きを担っているのが、いわゆる「非営利組織」というカテゴリーの人たちだということは興味深い。)
お金がいつ発明されたのか知らないけれど、お金を牛耳る悪の組織がいるのかどうかも知らんけど、でも今や「お金」はあらゆることに関係を持っている。
なのでそういう現代の日本で生きる人にとっては、自分が生きることとお金は直結しているような認識になる。
けれど、それは錯覚。よくできた錯覚。
お金がないことと、死ぬことには、直接的な関係はない。
お金と生きることも関係がない。
けど、お金少なくなると怖いと思う人が多いのは、食べること(水道光熱費含む)、寝ること(家の家賃)、人と会うこと(交通費、通信費)、およそ、じぶんが意識を持って行動することの全てに対して、お金を支払うことがセットになっているから。
お金がないと、食べれなくなる。→怖い→最悪死ぬ
お金がないと寝れない。怖い→最悪死ぬ
お金がないと人と会えない、連絡取れない→怖い→最悪死ぬ
というつながりが、自動的に発生するから錯覚が成立してる。
と一度考えるだけでも、あんがい嘘だということは分かる。
※3ところが、お金とお金にまつわる認識ってのは、もう見事なもので、実際に動いて確かめるということも怖いくらいにリアルな認識を作っている。
そういう背景から、「お金のこと全部とっぱらってしまったらどうなるか」を試しているのが坂爪さんなんだなーと思っていて、突き抜け方がかっこよくて憧れる。
だからってぼくは他の人のようには慣れないことも、さすがによくよく分かってきていて、もちろん経済そのものが悪いわけでもなくて、これを書きながら要は、お金をどの程度自分の生活に取り入れて暮らすのかってことなのだと思うにいたった。
なにものかになりたいけれど、カッコよさに憧れるけれど、どうしたってぼくが向くのは、ぼくにとっての「普通」の感覚の中で何をするのかにしかならなくて、こうしてバカ真面目に言葉を綴っている。
※1 お金の万能感の構造
もっと分かりやすく直接的なことを言えば、お金で買えるものが増えるほど、お金の万能感が高まる。ということ。たとえば「ラグジュアリー」なモノやサービスを(テレビや新聞などで)「ある」と思わせることができれば、それを持っていない人には自動的に「ない」が生じる。この欠損としての「ない」を埋めるには、お金が必要だ。ということが、生活のあらゆるシーンで起これば、これはもう、つまり、豊かさとは「お金が多いこと」でしかない。(所属や肩書、社会的地位などは、そうしたお金によって計られる価値のものさしに付随して、あるいはお金を得る手法と量の総体として、「社会」にとって通りのよい共通の価値を帯びていく。[もしくは、単純な認知度の高さによって。])
※2 「お金がないと死ぬは本当か」の確認
このあたりのこと、坂爪さんのブログを読むと、見事に一つ一つ確かめていってくれていて、見事だなーと思う。
※3 リアルにしか思えない錯覚について
分かりやすいのは、USJのハリーポッターとか、スパイダーマンみたいな、映像と乗り物で、本当に空を飛んでる感じになったり、爆発したものが迫ってくるような感覚をリアルに感じるアトラクション。
あれ、ぼくが乗った時にたまたま、故障でスクリーンの映像が消えたことがあって、一瞬ちょっと、あっけにとられました。そこにはただの灰色の壁があって、さっきまで「うわー」とか「怖えー」とか言ってたのが、恥ずかしくなるくらいに、ただの壁とレールがそこにありました。
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