雨の日の散歩 言葉について思う

公開日: 2020-02-29

 雨が降っている。

土間サンルームとよんでいる8畳ほどのスペースには、薪ロケットストーブとよんでいるどこのホームセンターでも買えるホンマ製のそれがあって、勢いよく燃えているうちは温かい。と書こうとしたら薄ら寒くなってきていたので薪をくべにいってから「勢いよく…」と書き始める。

もう何度目かになるブログの引っ越しは、半年くらい前からしたいと思いながらできなかったことでそれをまさに今している。考えあぐねてめんどくさくなったりしていると、何にもできていない気がするけど、今日は伊吹と雨の中散歩に行ってしいたけを拾ったことを思い出す。

レインコートを着て、プラスチック製の先が折れたスコップ(だったもので、ただの長い棒にしか見えない)を持って、伊吹は上機嫌に歩く。雨靴を道端の落ち葉に突っ込みながらがさがさいわせてみたり、たぶん今日はじめて発見した草むらの、僕も名前を知らない花だか葉っぱの枯れたやつを指さして「みてー、これ。これなに?なんていうん?」

伊吹はところどころ関西弁を使ってはなすようになった。関西で育っているのだから当たり前だけど、標準語に近い名古屋弁の中で育ち、20年近く関西に住んでいるのに未だに関西弁を話さない僕にとってそれは少しショックでもあったのだけれど、わざわざこうして書くほど大げさなことではなくて、家では標準語に近い名古屋弁と鹿児島弁を聞き、保育所で関西弁を習う彼が中途半端な方言を身に着けてしまうであろうことをいつだったかちょっと申し訳ないなと思ったことがある。

方言も含めた「日本語」の、というか言語そのものの正当性。なんていうものは、この何年か言葉について考えたてきた中で持ち合わせがなくなってしまったけれど、根強い信仰のある正当性の神話にいつか彼が出会ったとき何を思うだろう。

近所の土手に、打ち捨てられた原木しいたけの置き場があって、腐って崩れた木の中になにか珍しい草でも生えていないかと見に行くとしいたけそのものが根強く何個か傘を広げていて思わず声を上げて驚いてしまった。

午前中はことば塾の授業があって、今日はZOOMでの遠隔授業。
コロナウイルスの影響で学校が一月近く休みになるらしいこと。昨日まであったテストの出来は数学と理科以外は良くなさそうだということ。テスト期間中、スマホのゲームをしすぎて取り上げられたこと、そのとき実はイラッとしていたのだということ、何かを話す。授業では毎回、文章を書いてきたもらって、さらに時間をとって書く時間を作り、その文章をレビューするのだけれど、今日ようやく関西弁を話す中学生が作文を苦手になる理由がわかった気がして、こういうことが分かるのが授業をしていて一番面白い。

こうして書いてみてようやくいろいろやっていたんだということを思い出す。書くことは大事だ。書かないとわからないことがある。書かなければ残らないことがある。そういうものの力を信じれるくらいには言葉と向き合ってきた。

日常の中で、いろいろと中途半端なものも転がりながら、ここから一歩目をまたスタートしていく。
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