お金のインタビュー 長尾文雄さん その4
公開日: 2013-03-01 お金
時代の要請の中でつながりを切ってきた”今”
小林:長尾さんくらいの年齢で、というとあれかもしれないですけど、こういったことをあえて言葉にする人ってあんまりいない感じがしていて。それはなんなのかなーっていうことが気になってるんですけども。
長尾:最近僕が読んでいる、山崎正和という人の「世界文明史のこころみ」って言う本に人間っていうのは猿が毛繕いをしているのと一緒の関係、そういうのと一緒の関係を持たないと、生きて行かれへんねやっていうのを書いてはんのよ。その猿が毛繕いをしているのと同じようなのが、人間社会で言うと、いわゆる噂話とかゴシップなんや。週刊誌に書くような意味じゃないよ、互いにそういう何気ない、たわいない話をすることでお互いに癒され、癒し合ってね、そして関係を確かめてるんやと。
で、そういう関係性が持てるのは、大体150人くらいなんやって。それ以上になると、本当の意味でのボスがいてね、支配をしていかないと関係性を作れないんだと、いうようなことをいってはるわけですよ。
その毛繕いがなぜ大切かというと、それは身体感覚なんですよ。それぞれの個体が持っている中にある、動いてるものなんですよ。それに、お互いに刺激し合う、そやから相手のために毛繕いをすることを通して自分が癒され、というね、そういう関わり合いというのによって、人間て生きてるんやと。それは、行動を起こして何か能力を持ってするということにおいてつながってるんじゃなくて、たわいない、お互いに自分の身体をふれあって、自分の中にあるものが共鳴し合うような、そういうある存在としてね、身体として関わってるということが、まあ人間の、歴史のはじまりではないか、といって、そういう仮説を山崎正和さんはいうてはるわけですよ。
それをみると、「あーそやなー」と本当に思うので、今はそれに没頭して読んでんねんけど。それはやっぱり、日本でも昔、お互いに村という、おそらく文化的にはいろいろ問題はあるけども集落を作って、お互いが身を寄せて、そして同じようなものを作ってそれを共有して、生きてるって言うのが、本来の人間の在り方っていうかな。ということは、さっき君がいったように、物々交換というか、ものだけではなく心というか、自分の持っている何かを渡してまたもらう、それは基本的には猿の毛繕いと同じようなもの、そういう行為をする事によって人間社会というのは成り立ってんちゃうか、という。そうすると、やっぱりそういう単位で生きにくい人はね、バリバリやってる人も含めて、そういう生き方をお互い一度やってみるとね、うまくいくんちゃうかと、そういう風にもいえるよね。
小林:そういう単位って言うのは150人くらいの、
長尾:そうそうそう、そういう集落っていうか生活共同体の中でね、何かをやってみれば。
小林:そういうところ、猿の毛繕いって面白いですね。精神的な毛繕いみたいなものかもしれないですね。中学生くらいだと。恋愛の話とかしたり。
長尾:そういうね、たわいのないような、話。まあまあ、そういうようなことを考えながらおるんですけど。笑
小林:はははは
長尾:だから、君がやってるようなこととどっかではつながると思うよ。で、つながる力っていうのは、もともとつながってんねや。で僕ら切っていったんや。いろんな理由を付けて。だから特に、日本の高度成長期、僕なんか高度成長期のまっただ中で育ってるわけだけど、結局まあ僕らの年代、僕らより上の世代というのは、いわゆるみんな農村にいたわけでしょ。第一次産業についている、息子だったりしたのが、高度成長のときに都会にかき集められて、そしてお金を稼ぐ、そいういうものに駆り立てられて行ったわけですよ。で、そのときに享受したのは、田舎のように近所付き合いとか、ややこしいことがない、そんなことをしなくていい、自分たちの気に入った人たちだけ、あるいは家族だけで楽しい、生活が遅れる。
小林:すきな時に好きなとこへ行って
長尾:好きなとこへ行って、楽しめるっていうことを、選択してしまったわけや。
小林:あぁー、、、、それも選択やったんですね。
長尾:そう。選択してたわけですよ。切ったわけですよ。もちろんそれは都会からの要請が
あったわけだけれども。切ったわけでしょう?だから今、路頭に迷ってる介護難民にしても、みんなそういう世代の人たちや。僕らと同じような。だから田舎にも帰る事ができず、頼る事もできず、放浪したりしまってるわけでしょう?いろんな施設をたらい回しにされたりして。そこらへんの戦後史みたいなものを、そんなものを踏まえて、こんなん考えはったら、さらに深みが出ると思うけど。笑
小林:そうですね。高度経済成長期とかはかなり面白いなと思って調べたりしてるんですけど。
長尾:やっぱりそこでの、あの、今までの物を切り捨てたんですよね。意識的にね。それまでの社会って言うのは、ゆったらお金は儲からない社会ですよ。食えたけどもお金にはならない、お金がなかったら欲しいものが変えない、という。だけど欲しいものを買うために、今までの基盤を捨てて子ども達は都会へ出て行った。単純化して言えば、そうですよね。違う見方もできるかもしれないけども、そういう側面からいえばね。
小林:今も若干そういう部分があるなと思って、田舎へ行けば、いろんなつながりが深いので、勝手な事をやれば「あそこの家は」と言われて。それで都会へ来たら、そういうものから解かれるんですけど、そこでもお金っていうものの縁の中に入って行くと言うか。
長尾:お金でしかつながれないっていうかな
小林:都市の中ではお金で評価されるのは当たり前で、だって人のつながりきってきたんだもん、というか。
長尾:「うちの大根できたんやけど食べるー?」っていう世界がなくなってきたわけですよ。まあ都会のその時代の都会の下町なんかでは、「ちょっと作りすぎたから食べへん?」ゆうて、隣のおばさんがもってきてくれるとかね。そういうやり取りしている世界があったわけでしょ。
小林:まあ今、なくなっていくのは必然と言うかね、そういう構造の中に入っていくというか
長尾:入って行く。まあだからそれにたいして、そういう構造に対して君が言おうとしてるのは僕も分かります。「ちょっと違うんちゃう?」ゆうて。
小林:そうか、でも捨てた結果として今があるんだという風に見ると、ちょっと違った味方もできるなというか。まあ、頭では理解していたんですけど、実際にその時代を生きた人から聞くと受け取れるというか、僕の中では手触りができるという感じが会って。切り離すという選択をしたんだったら、そこもなんか敬意を払いたいなと思うし、ただその上で次の選択も僕たちがしていってもいいんですね。並べるというか、今までは社会とか手の届かない物に対して会話をしようとしていたのが、選択したんだっていうのがあると、手応えができるなって。
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小林:長尾さんくらいの年齢で、というとあれかもしれないですけど、こういったことをあえて言葉にする人ってあんまりいない感じがしていて。それはなんなのかなーっていうことが気になってるんですけども。
長尾:最近僕が読んでいる、山崎正和という人の「世界文明史のこころみ」って言う本に人間っていうのは猿が毛繕いをしているのと一緒の関係、そういうのと一緒の関係を持たないと、生きて行かれへんねやっていうのを書いてはんのよ。その猿が毛繕いをしているのと同じようなのが、人間社会で言うと、いわゆる噂話とかゴシップなんや。週刊誌に書くような意味じゃないよ、互いにそういう何気ない、たわいない話をすることでお互いに癒され、癒し合ってね、そして関係を確かめてるんやと。
で、そういう関係性が持てるのは、大体150人くらいなんやって。それ以上になると、本当の意味でのボスがいてね、支配をしていかないと関係性を作れないんだと、いうようなことをいってはるわけですよ。
その毛繕いがなぜ大切かというと、それは身体感覚なんですよ。それぞれの個体が持っている中にある、動いてるものなんですよ。それに、お互いに刺激し合う、そやから相手のために毛繕いをすることを通して自分が癒され、というね、そういう関わり合いというのによって、人間て生きてるんやと。それは、行動を起こして何か能力を持ってするということにおいてつながってるんじゃなくて、たわいない、お互いに自分の身体をふれあって、自分の中にあるものが共鳴し合うような、そういうある存在としてね、身体として関わってるということが、まあ人間の、歴史のはじまりではないか、といって、そういう仮説を山崎正和さんはいうてはるわけですよ。
それをみると、「あーそやなー」と本当に思うので、今はそれに没頭して読んでんねんけど。それはやっぱり、日本でも昔、お互いに村という、おそらく文化的にはいろいろ問題はあるけども集落を作って、お互いが身を寄せて、そして同じようなものを作ってそれを共有して、生きてるって言うのが、本来の人間の在り方っていうかな。ということは、さっき君がいったように、物々交換というか、ものだけではなく心というか、自分の持っている何かを渡してまたもらう、それは基本的には猿の毛繕いと同じようなもの、そういう行為をする事によって人間社会というのは成り立ってんちゃうか、という。そうすると、やっぱりそういう単位で生きにくい人はね、バリバリやってる人も含めて、そういう生き方をお互い一度やってみるとね、うまくいくんちゃうかと、そういう風にもいえるよね。
小林:そういう単位って言うのは150人くらいの、
長尾:そうそうそう、そういう集落っていうか生活共同体の中でね、何かをやってみれば。
小林:そういうところ、猿の毛繕いって面白いですね。精神的な毛繕いみたいなものかもしれないですね。中学生くらいだと。恋愛の話とかしたり。
長尾:そういうね、たわいのないような、話。まあまあ、そういうようなことを考えながらおるんですけど。笑
小林:はははは
長尾:だから、君がやってるようなこととどっかではつながると思うよ。で、つながる力っていうのは、もともとつながってんねや。で僕ら切っていったんや。いろんな理由を付けて。だから特に、日本の高度成長期、僕なんか高度成長期のまっただ中で育ってるわけだけど、結局まあ僕らの年代、僕らより上の世代というのは、いわゆるみんな農村にいたわけでしょ。第一次産業についている、息子だったりしたのが、高度成長のときに都会にかき集められて、そしてお金を稼ぐ、そいういうものに駆り立てられて行ったわけですよ。で、そのときに享受したのは、田舎のように近所付き合いとか、ややこしいことがない、そんなことをしなくていい、自分たちの気に入った人たちだけ、あるいは家族だけで楽しい、生活が遅れる。
小林:すきな時に好きなとこへ行って
長尾:好きなとこへ行って、楽しめるっていうことを、選択してしまったわけや。
小林:あぁー、、、、それも選択やったんですね。
長尾:そう。選択してたわけですよ。切ったわけですよ。もちろんそれは都会からの要請が
あったわけだけれども。切ったわけでしょう?だから今、路頭に迷ってる介護難民にしても、みんなそういう世代の人たちや。僕らと同じような。だから田舎にも帰る事ができず、頼る事もできず、放浪したりしまってるわけでしょう?いろんな施設をたらい回しにされたりして。そこらへんの戦後史みたいなものを、そんなものを踏まえて、こんなん考えはったら、さらに深みが出ると思うけど。笑
小林:そうですね。高度経済成長期とかはかなり面白いなと思って調べたりしてるんですけど。
長尾:やっぱりそこでの、あの、今までの物を切り捨てたんですよね。意識的にね。それまでの社会って言うのは、ゆったらお金は儲からない社会ですよ。食えたけどもお金にはならない、お金がなかったら欲しいものが変えない、という。だけど欲しいものを買うために、今までの基盤を捨てて子ども達は都会へ出て行った。単純化して言えば、そうですよね。違う見方もできるかもしれないけども、そういう側面からいえばね。
小林:今も若干そういう部分があるなと思って、田舎へ行けば、いろんなつながりが深いので、勝手な事をやれば「あそこの家は」と言われて。それで都会へ来たら、そういうものから解かれるんですけど、そこでもお金っていうものの縁の中に入って行くと言うか。
長尾:お金でしかつながれないっていうかな
小林:都市の中ではお金で評価されるのは当たり前で、だって人のつながりきってきたんだもん、というか。
長尾:「うちの大根できたんやけど食べるー?」っていう世界がなくなってきたわけですよ。まあ都会のその時代の都会の下町なんかでは、「ちょっと作りすぎたから食べへん?」ゆうて、隣のおばさんがもってきてくれるとかね。そういうやり取りしている世界があったわけでしょ。
小林:まあ今、なくなっていくのは必然と言うかね、そういう構造の中に入っていくというか
長尾:入って行く。まあだからそれにたいして、そういう構造に対して君が言おうとしてるのは僕も分かります。「ちょっと違うんちゃう?」ゆうて。
小林:そうか、でも捨てた結果として今があるんだという風に見ると、ちょっと違った味方もできるなというか。まあ、頭では理解していたんですけど、実際にその時代を生きた人から聞くと受け取れるというか、僕の中では手触りができるという感じが会って。切り離すという選択をしたんだったら、そこもなんか敬意を払いたいなと思うし、ただその上で次の選択も僕たちがしていってもいいんですね。並べるというか、今までは社会とか手の届かない物に対して会話をしようとしていたのが、選択したんだっていうのがあると、手応えができるなって。
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