「人は資源だ」といった瞬間に、人をゴミのように扱う可能性が出てくる
公開日: 2014-09-25 ニュース考
いわゆる”すき家の乱”のニュースも興味深いニュースだった。 |
いわゆる”ブラック企業”についての報道をフェイスブックで目にした。
”すき家の乱”の報道を見たときにも思ったが、
「会社と社員の闘い」という構図だと、
”ブラック企業の増加”という課題があって、
それをどう解決するかという話になっていく。
でも、「なぜここまで企業が人を使いたおすのか?」
という問いの方がポイントなんじゃないだろうか。
食品、流通、エネルギー、全てを低価格で稼動させて
実現できているサービスが、ついに人という資源にまで及んだ、
という話だとしたらどうだろう。
そこまでしないと利益が確保できないのが飲食業会の実情で、
もちろん関わった人の責任や罪もあるのだろうけど、
そこだけ追求しても枝葉の話をされている感じがする。
中沢新一氏が「圧倒的な非対称」の中で、
”狂牛病は食用動物からのテロ行為にみえる”(かなり要約してます。。。)
という趣旨の文章を書いていた。
牛や 鳥なら声を上げれないので素通りされてきた問題だったのに、
人間にまで及んだので声を上げる人が出てきた、という見方もできる。
フォアグラの生産方法についてのニュースも近年よく目にする。 |
どこか遠くの国の森林がガンガン切りたおされても、
食用の家畜がいのちの尊厳を踏みにじられる扱いをされても、
ぼくらはイタくもないし、「あぁ、胸が痛みますね」なんて言うだけ。
それは人間の性質として当然の反応でもある。
でも、それらは全て何かのサービスや商品・エネルギーなどを
得るために行われていた。
そういえば10年ほど前に、「人は資源だ」という言葉を聞いて、
とても納得していた自分がいた。
「会社にとって人は資源だから社員の成長が大事なんです。」
という経営者の話を聞いて、いい会社だなーと思っていた。
でも、”人は資源”であるならば、
利用価値があれば”財産”として大切にされて、
利用価値がなくなれば”ゴミ”として捨てられる。
最小の資源で最大の利益を生み出すことが命題の世界では、
それは当然のことだと思う。
そして、明確に認識しているかどうかは別にして、
組織に入るとき、その考え方は雇う人にも雇われる人にも
受け入れられた上で雇用という関係性が築かれるのだろう。
”一人の人間として「ゴミではない」”と訴える気持ちには 共感する。 |
でも、自然や動物と違って、人という”資源”から価値を生む場合、
その資源は言葉を話したり、反発することが可能。
労働組合なんかをつくっていたのは、
”資源”を酷使しすぎて反撃をくらわないように調整をする機能を
あえて持つことが効果的だったからだろう。
効率化の果てに、とうとうそんな調整でさえしている余地が
なくなってきてしまったのだけれど、、、。
で、資源を酷使しても気づかれないように、
(雇う側に酷使している自覚が全くない場合もあるが)
例えば”社員の成長”をスローガンに掲げて経営する組織が出てくる。
雇う、雇われる、という関係性を利用して
反撃を封じ込める作戦に出る組織が現れる。
(すき家など、今回ニュースでとりあげられているのはこのパターン)
それでも、酷使され続けると、この、”人という資源”は
「何かおかしい」と思って、さらに反撃の機会をつくり出す。
ブラック企業の報道は、ぼくにはこんな風に見えています。
で、ぼくとしては、
そもそも人や動物や自然に限らず、
「資源は見つけた人や、所有している人のものであり、
最大限活用して利益をだすもの」という前提について考えませんか?
ということを語りたいと思っています。
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