テレビや炊飯器を捨てることで発見できる暮らしのデザイン
公開日: 2014-09-27 暮らし
岐阜の友人の家にある土鍋。 彼もこれでごはんを炊いている。うまい。 |
ぼくのうちにはテレビがない。
10年くらいまえに、ひとり暮らしをしていた部屋がせまくて、
「テレビをなくしたらちょっと広くなるな」と思って捨てにいった。
ニュースは携帯やパソコンで見ることができる。
ダウンタウンの番組がどうしても見たくなったり、
ドラマやアニメで見たいものがあれば、
ネットやオンデマンドのサービスでパソコンからみれる。
”なんとなく”テレビをつけて見る時間がなくなり、
動画を見るときは自分が見ると決めたときだけになったから、
なんとなく気持ちよく過ごせるようになった。
捨てた当初は驚かれることが多かったけど、
最近は同じようにテレビを持っていない人も増えてきたので、
近々、テレビを持っていない人が
30人くらい集まって話をする企画でもしたいなーと思っている。
ぼくのいえには炊飯器がない。
3年ほど前に、おいしい米をもらったので
じぶんで炊いてみようと思いたち、
スーパーで売っているような取手つきのナベでごはんをつくった。
お米のおいしさもあったんだろうけど、驚くほどおいしかった。
「このナベでこんなにおいしいんだったら、
ちゃんとしたモノで炊いたらおいしいだろうなぁ」
と思って、JALのマイレージで
鉄器製の羽釜(昔話にでてくるご飯をたくやつ)
を見つけて注文した。
そのときから炊飯器はうちからいなくなった。
毎食のごはんがおいしくなると、それだけで暮らしが
豊かになったようで、気に入っている。
テレビが”ある”ことや、炊飯器が”ある”ことは、
ぼくの親の世代なら、豊かな暮らしに必須のアイテムだった。
でも、今のぼくは、電気で動くものが”ない”ことを
豊かだと感じている。
人が手間をかけて道具を扱うこと。
道具を手入れして丁寧に扱うこと。
ぼくが生まれた頃には、周りにあったであろうそういうものが、
ものごころがつき、思春期をむかえ、社会人になっていく過程で、
どんどん無くなっていった時代に育ったからなのかなぁ、と思う。
昔”あった”暮らしが変わっていった先にぼくがいて、
今”ある”暮らしを変えていく先にあるものを見ようとしている。
それは昔に戻るということではなくて、
ぼくの親の世代が、
”ある”というフロンティアが開拓していったのと同じように、
ぼくは、”ない”というフロンティアを開拓しているということ。
(もちろん、ぼくの祖父の世代の暮らし方や生き方から
学ぶべきことはたくさんあるんだけど。)
身の周りにある道具によって、ひとの暮らしは大きく影響を受ける。
たんに、便利さ、効率さ、快適さ、が大きければいい、
という考え方じゃなくて、
”じぶんがどんな暮らしをしたいのか”を軸にして、
身の回りに置くものを決めていきたい。
そんなこと書いてたら、
電子レンジを捨てた話とか、
服は夫婦そろって人からもらったものが多い。とか、
かつお節けずり機とかつお節の話とか、
生豆を買ってじぶんで煎っている話とかもあったな。
ちょっとずつ書いてみようかな。
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