円坐(エンカウンターグループ)と無縁の原理
公開日: 2014-10-12 円坐・エンカウンターグループ
1年以上前に、初めて自分で円坐を開くときに書いた案内文。
かなり力を入れて書いてました。
非構成のエンカウンターグループのことを、
僕が学んだ場所では「円坐」と呼んでいました。
ほとんど同じ意味なのだそうですが、
カールロジャースさんが発明?したものが、
日本で広がる中で変化してきている部分もあるそうで、
あえて円座と使いだしたのだとか。
僕自身も「円座」という響きが好きなのと、
エンカウンターグループというとちょっと距離を感じるので、
円座という表現を好んで使っています。
では、その円座とは何なのか?
短く言えば、同じ時間、同じ空間に、
ただ円を作って座る。
それだけの集まり、ということになります。
話し合うテーマも内容も集まる人も、何も決まっていない。
まったく構成がされていない集まり。
話したければ話してもいいし、話したくなければ、
一言も話さずに帰ってもいい。
そんな場です。
当然、そこで何がおこるのかは何も約束されていませんが、
円座では、そういった不確実性の中から生まれる「何か」を
強く信頼している場なんじゃないかと思います。
(場を開く人≒ファシリテーターは特に。)
僕が出会った円座のファシリテーターの方の言葉を借りて言えば、
「その場に必要なことが必要な分起こる場。」
そもそも、
人が存在そのものをかけて座るとき、
「出会ってしまう」のは偶然でしょうか?
僕たちは人と出会う際に自己紹介をします。
通常それは、自分がどこの誰であるか、
どんな組織に属しているか、どんな肩書きか、
どんな仕事をしているかを相手に伝え、
相手からもそれを伝えられます。
しかし、何十年も生きてきた存在同士が、本当に出会うためには、
身分や所属、収入や地位、肩書きは、必要でしょうか?
そういったプロフィールに依存しない出会いは無いのでしょうか?
日本史家の網野善彦は膨大な史料を読み込むことで、
世俗の縁が無い場所に働く力、「無縁の原理」を解き明かし、
無縁が持つ生き生きとした力を掬い上げました。
代表的な著書『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』によれば、
駆け込み寺や河原、辻、市などが代表的な無縁の場とされ、
そこに暮らす無縁の人は世俗のつながりを絶ち、
それ故に特別な力を持つとされ、芸能やものづくり、
商いといった仕事についていました。
また、その昔、無縁の人であった職人たちが作った座(組合)のように、
無縁の存在として座を組み、新たな規則に基いて縁を結ぶことを、
思想家で人類学者である中沢新一は著書「大阪アースダイバー」の中で、
「超縁」と呼んでいます。
これらの考えを手がかりに、円座を改めて表現するなら、
目の前の人のプロフィールを横に置き、
お互いに無縁の存在としてただともに座ることで、
存在そのものに出会う場、とも言えそうです。
かなり力を入れて書いてました。
網野善彦の代表的著書の一つ。 ここで解き明かされる無縁と円坐とに 通じ合うものがあるのを感じる。 |
非構成のエンカウンターグループのことを、
僕が学んだ場所では「円坐」と呼んでいました。
ほとんど同じ意味なのだそうですが、
カールロジャースさんが発明?したものが、
日本で広がる中で変化してきている部分もあるそうで、
あえて円座と使いだしたのだとか。
僕自身も「円座」という響きが好きなのと、
エンカウンターグループというとちょっと距離を感じるので、
円座という表現を好んで使っています。
では、その円座とは何なのか?
短く言えば、同じ時間、同じ空間に、
ただ円を作って座る。
それだけの集まり、ということになります。
話し合うテーマも内容も集まる人も、何も決まっていない。
まったく構成がされていない集まり。
話したければ話してもいいし、話したくなければ、
一言も話さずに帰ってもいい。
そんな場です。
当然、そこで何がおこるのかは何も約束されていませんが、
円座では、そういった不確実性の中から生まれる「何か」を
強く信頼している場なんじゃないかと思います。
(場を開く人≒ファシリテーターは特に。)
不確実なところから生まれる何かを 信頼する行為は、狩猟採集社会の在り方に通じていると思う。 |
僕が出会った円座のファシリテーターの方の言葉を借りて言えば、
「その場に必要なことが必要な分起こる場。」
そもそも、
人が存在そのものをかけて座るとき、
「出会ってしまう」のは偶然でしょうか?
僕たちは人と出会う際に自己紹介をします。
通常それは、自分がどこの誰であるか、
どんな組織に属しているか、どんな肩書きか、
どんな仕事をしているかを相手に伝え、
相手からもそれを伝えられます。
しかし、何十年も生きてきた存在同士が、本当に出会うためには、
身分や所属、収入や地位、肩書きは、必要でしょうか?
そういったプロフィールに依存しない出会いは無いのでしょうか?
スタッフとして名を連ねているフェンスワークス。 円坐(エンカウンターグループ)が 毎月のように開かれている。写真は交流会の様子。 |
日本史家の網野善彦は膨大な史料を読み込むことで、
世俗の縁が無い場所に働く力、「無縁の原理」を解き明かし、
無縁が持つ生き生きとした力を掬い上げました。
代表的な著書『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』によれば、
駆け込み寺や河原、辻、市などが代表的な無縁の場とされ、
そこに暮らす無縁の人は世俗のつながりを絶ち、
それ故に特別な力を持つとされ、芸能やものづくり、
商いといった仕事についていました。
また、その昔、無縁の人であった職人たちが作った座(組合)のように、
無縁の存在として座を組み、新たな規則に基いて縁を結ぶことを、
思想家で人類学者である中沢新一は著書「大阪アースダイバー」の中で、
「超縁」と呼んでいます。
これらの考えを手がかりに、円座を改めて表現するなら、
目の前の人のプロフィールを横に置き、
お互いに無縁の存在としてただともに座ることで、
存在そのものに出会う場、とも言えそうです。
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