21世紀の神話
2012年8月立山にて撮影 |
ものすごく荒いですが、中沢新一のカイエ・ソバージュⅠ巻・Ⅱ巻(講談社選書メチエ)と、マーシャル・サーリンズの「石器時代の経済学」(法政大学出版局)を合わせて、紀元前の歴史を物語にしてみました。もうちょっと煮詰めたいですが、一旦できたところまで。今後もじっくり編集していきます。
昔、人間と動物の世界は別れていなかった。太陽も風も海も、人と同じように呼吸をして一緒に暮らしていた。
人間はこの世界が大いなる1つの流れの中にあることを知っていた。なぜなら、他ならぬ自分達こそが昨日まではその流れの中にいたからだった。言葉を話し、感情を身に付け、知恵や技術を手に入れたとき、人はその流れの中からこぼれ落ちた。
けれど、人間は自分達が大いなる流れにあったことを昨日のように覚えていた。そこで、その記憶を物語として自分達の暮らしに刻むことにした。後に”神話”と呼ばれるこの物語では、動物や森、風や水と、人間が対等であり、その区別がないことが伝えられていた。
けれど、人間は自分達が大いなる流れにあったことを昨日のように覚えていた。そこで、その記憶を物語として自分達の暮らしに刻むことにした。後に”神話”と呼ばれるこの物語では、動物や森、風や水と、人間が対等であり、その区別がないことが伝えられていた。
3万年ほど前、人間はそのような物語を通して、自分達の知恵や技術と、自然との関係を対等に保っていた。そのころ、熊や山羊は”大いなる何か”からの遣いであり、贈り物だと信じられていたし、人間はその恵みを受け取ったことに大きな敬意を払っていた。
実際のところ、その生活は決して貧しさや飢えと隣り合わせの生活なんかではなかった。大きな気候の変動さえなければ、食料は十分に得ることができた。狩りに必要なのは一週間のうち数日だったし、生活に必要なものはどこででも手に入った。それ以外の時間は、踊ったり、眠ったり、 祈ったり、おしゃべりをしたりしていた。
変化が訪れたのは今から1万年ほど前、知恵や技術が、食料や財産となるものを用意に蓄積できるレベルに達した時だった。そしてそれは、 人間が自然に対して一方的な振る舞いをすることが可能になった瞬間だった。ただ、それでも人はその知恵や技術をむやみにつかったりはしなかった。大いなる流れを継承してきた人間は、そのあともしばらくは物語の力によって、自然との対等な関係を保ち、人と動物は言葉を交わすことができていた。
決定的だったのは、物語の力を人間の世界に都合良く解釈をする者が現れたときだった。発達した知恵が、物語の持つ魔力に気づいてしまったからかもしれない。まったく偶然に、悲劇や、あるいは喜劇が重なって、起こってしまったのかもしれない。ともかく、パ ンドラの箱は開かれた。
大いなる流れを、自分達の物語として取り込んだ人間は、ただの集団を組織へと変えていった。それから徐々に、一部の人、自然と人間とをつなぐシャーマンと呼ばれた者だけが、自然と話すようになった。そして彼らが許せば、どれだけでも自然からの恵みを取り出すことが可能になった。
”今ここ”しかなかった世界に、”明日”が現れ、人々は安定や安心を求めて暮らしを営むようになっていく。 そして、対等な関係を保ち、敬意を持って接するべき自然は、ただの資源となっていた。いつのころからか、動物は人間と言葉を交わせなくなり、熊や山羊はただの獣になっていた。
やがて、数ある組織は統合されていく。行われたのは人と人が争い、殺しあっての統合だった。幾度となく争いが繰り返されて、ついにおおきな力を持った組織、「国家」が作られることになる。次に待っているのは、もちろん、国家と国家の争いだった。
同じ頃、そういった争いから距離を置いて、古くから伝わる物語を語り継ぐ一族が、世界の各地に点在していた。そのうちの一つはインドの釈迦族という人々だった。中でも、ゴータマシッダールタという釈迦族の王は、その物語と、発達した知恵や技術とを統合して、未来につながる一つの教えを残していくことになる。
彼は、3万年前から伝えられてきた「大いなる流れ」を継承する物語と、人間の知恵を結びつけた。そして、国家の争いが年々大きくなっていく時代の中で、改めて世界の中での人間の在り方を提示したのだった。
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