”同じこと”が多い=仲がよい、というわけじゃない

公開日: 2014-10-03 日記


フェンスワークスの面々。
ぼくのなかま。


だれかと違っていることを「こわい」と思うことがある。


きっと、
違っていたらその人から
「きみのやっていることは間違ってる」とか
言われそうな気がするから。

そういえば、
ぼくも同じように、じぶんと違っている人を見れば
「あなたの言うことは間違ってますよ」
と言いたくなるときもある。

だれかが「いらない」というものを持っていたら
「あ、ぼくもってます。。。なんかすいません。」
と思うし、
じぶんがいらないものを持っている人がいたら
「そんなの持ってるの?」
と思ったりする。

だから、だれかに「間違ってる」と伝えるのは、
じぶんの正しさを証明するためにするのかもしれない。


でも待てよ、
相手の「間(ま)」がじぶんのそれと違うことを
伝えているのであれば、違っているのはいったい何なんだろう?

「じぶんが間違っているんじゃないか」とか
「あいつが間違ってるはずだ」とか、
どれだけ言っても「間(ま)」が違っているだけなら、
そもそも、じぶんと同じ場所に立てるひとなんて、
誰もいるはずがないわけで…。

それなのに、「間違ってる!」と言ってでも、
”同じ”になろうとするぼくらは何なんだろう。
他の誰かとまったく同じ場所に立てることなどないと知りつつ、
近づきたいし、一緒になりたいし、”間違い”無くありたい。

それは「みんな違ってみんないい!」
なんて、 大声でさけぶようなことではなくって、
ぼくらは絶対に誰かと同じにはなれない、という
なんともやりきれない事実を抱えて、
それでもどうやって一緒に居られるかを探るような、
切ない風景なんじゃないかなぁと思うわけです。

仲良くなることって、
”同じ”ことの量が多いことだと思っていたけど、
”違い”が何かを知ってることなのかもしれません。
”間の違い”を丁寧に扱えるような、大人になりたい。

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