変幻自在の場づくり

公開日: 2014-10-28 円坐・エンカウンターグループ 仕事

結婚式のときに、橋本久仁彦さんの協力で
行った親族の前での影舞
一方的に見てもらうという礼儀もある。


先週やったコトバのキロク
舞台設定が人に与える影響は想像以上にでかい、
ということを確認した。

エンカウンターグループや円坐をしていると
集まった人がフラットに、対等にあることの方が
良いと思ってしまいがちになる。

ところがどっこい、(古い?)
先週感じたのは、フラットではない構造
たとえば、”高さや低さ”のようなものをきっちり作る
ことの重要性だった。



本当は高さがあるのに、フラットだという認識でいると、
現実と構造が一致していないので、
視力に合わないメガネをかけたような
なんとも不透明な感じがしてくる。


先週の企画では、
ぼくと大谷さんが話すのを録音することが前提で、
それを聞いてもらう、という設定を後から足した。

でも、ぼくがその場をむかえて言ったのは、
「ぼくたち二人が基本的に話すけれど、
みなさんもご自由に発言してもらっていいですよ」
という言葉だった。

結果、
”基本的に話すのは二人”なのに、
”自由に話せる”という、
なんとも言えない環境が生まれた。

前に出ている二人は、居心地の悪さと責任感で
ふらふらになっていたし、
参加者のある人は「緊張してそうだから応援しよう」
という心づもりで黙って坐り、
別の人は、「居心地が悪いなー」と思いながら座り、
また別の人は「この話、興味あるけど話していいかな」
と思いながら座り、
それらの思いがダイレクトに前の二人に影響して、
さらに緊張していく、
というなんだかへんてこなスパイラルを起こしながら、
それぞれ時間を過ごした。

小さな組織で
「みんなの意見を取り入れたい」という社長と、
「結局あんたのやりたいようにするんでしょ」
という社員の構図に似ているなぁと思う。
そのときの雰囲気は、
そんなに殺伐としたものではなかったけれど。


当たり前かもしれないけれど、
高さや低さというのは「山が高い」 とか
「谷が低い」という地形のようなもので、
善し悪しとは別の次元にある。

仮にひな壇をつくり、そこを舞台とすれば、
その場が周りよりも高くなる、そんな感じ。
その高いこと自体には良いも悪いもない。
けれど、人が集まって対等に話をする場合には、
都合が悪いことのほうが多いだろう。

やっぱりひな壇に上がっている人が、
周りの人に話しかける形になるし、
そのために、ひな壇が設置されている。

少人数でやる集まりには、
モノとしてのひな壇のようにわかりやすい舞台はなく、
宣言の仕方やその場にいる人の態度によって
舞台が作られたり消えたりする。

多くの場合、
場を開く人が最初に舞台を設定するが、
今いった、高低差の影響を知ったうえで
どのように舞台を提示するのか、
そして、つくった舞台が
その場にいる人の関わりによって
ぐらつくときどんな態度をとるのかが、
場をひらく人の腕の見せ所なのだと思う。

多くの場合、効率や、安定を求めて、
その場にいる人の影響を受け取るようには
しないのだけれど、その場にいる人を中心に
場をつくる場合はそんな視野もいりそうだと
思うこのごろです。


高さや低さ、舞台の形さえも、
その場にいる人に応じて変えていけるのって、
マジシャンみたいだなぁ。


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