不気味の谷と文字

公開日: 2014-11-10 日記

文章ではなくとも、
残されたもの自体が発するメッセージがある。


大谷さんのこの記事を読んで、
【022】残すの熱
文字ってなんだろうということを考える。

「残す」って、話している言葉を
圧縮して保存するような行為だと思う。
生(なま)の言葉を一度圧縮して、
誰かがもう一度、解凍できるように密封する。
そんな感じ。


圧縮して解凍する過程で、壊れてしまったり、
死んでしまう言葉があるから、
生々しい言葉を残したい場合は、
あえて傷みやすい言葉や表現をカットする。
解凍したときに、生の素材だけでは
意味が分からなくなりそうだったら、
ちょっと添え物を一緒に入れておく。

大谷さんの「言葉の記録」の記事は、
そんなふうにして、若干の修正や加筆をした。

最初は、ほとんど生のままの文章を
載せてもらおうと思ったけれど、
”残された”言葉は、既に放たれた瞬間の
みずみずしさを失っている。

考えてみれば、話している言葉なんて
放っておけば、そのまま空気となって、
消えていくだけのものだ。
それを、わざわざつかみとって集めて
形にしているのだから、
”そのまま”とか”生のまま”
ということ自体が無理な話。

そういえば、人の形をしたロボットづくりでは、
不気味の谷という現象があると聞いた。
人間の形に似せれば似せるほど、
「ほとんど人間のようだけど、どこかが違う・・・」
という違和感がきわ立って、小さい子どもなんかは
気持ち悪くて近づかなくなる。ところが、
ある一線(不気味の谷)を越えると、
今度は人とロボットを見分けられなくなるのだとか。

”生々しい文章”にも、不気味の谷がありそうだ。

話している言葉をそのまま書けば書くほど
話し言葉との違いが浮かび上がる。
だから、多くの人は、自分の言い淀みや、
「えーっと」とか「そのー」という言葉までを
正確に書き起こした文章を見ると、驚く。

それは、自分の姿にそっくりな
ロボットの前に立った時の不気味さと
似ているんじゃないかと思う。

「ほとんど自分、でも自分じゃない」
って、確かに不気味だ。

だから、「残す」ことにも熱がいる。

ぼくが、文章を書くことにたいして、
とても面倒なことだと同時に、面白く思っているのは、
言葉にもある”不気味の谷”を
ちょっとは超えられたんじゃないかという
手応えを感じることができるからかもしれない。

毎回はできなくても、
そういう文章を書いていきたいと思って今日も書いている。

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