悪人になる覚悟でものを書く
公開日: 2014-11-10 日記
福島県の放射能のことを描いた回は ニュースで騒がれた。そのこともブログには 掲載されている。 |
漫画 「美味しんぼ」の原作者、雁屋 哲さんのブログ。
ブログの挨拶文を見て、丁寧だなぁ、と思った。
下記、一部抜粋。
ここは、私、雁屋哲が思った事、感じた事、考えた事をとりとめもなく書き連ねる場所です。
何を書いてもそれは私の自由ですが、それをこうしてわざわざ多くの人の目にさらすことになんの意味があるのか、実は自分でもよく分かりません。
〜中略〜
私は根が正直である上に、空気を読めない人間なので、このブログを読んで不愉快になる方が居られるかも知れません。
しかし、そこがインターネットの便利なところで、不愉快になった方は、すぐに他のサイトに移ることが出来るので、そうすることをお勧めします。
ブログに限らず、文章を公開することの説明として、
的確な表現をされていると思う。
雁屋 哲さんの場合は、中略の部分に
「じぶんは物書きだ」 という立ち位置をしめして、
やむにやまれず文章を書き、人目にさらしていることを
補足するような形。
ここ最近ブログを書けなくて悩んでいたのだけれど、
では、ぼくはどうなんだろう?と考える。
ブログを書きはじめたのは、
イケダハヤトさんの本を読んで、
文章を書くことで世界が豊かになる、
という言葉に勇気づけられたからだった。
でも、書き初めてみると、人にどう思われるのか、
不快にさせたり、気分を害したり、
悲しい気分にさせたりしていないだろうか、
ということは結構気になる。
一応、思考としては、
「人はぼくが気にかけたり、ケアしたりするほど
弱い存在ではない。むしろ、ぼくが助けようと
思うような人ほど、ぼくが全力で手加減せずに
関わるくらいの気合いが必要だ」
ということで、納得しかけてたんですが、
面と向かって会うのではなく、言葉を残していく
という意味で、おさまりが悪くなってきました。
もしかしたら、人を傷つけるかもしれない。
もしかしたら、人を悲しくさせるかもしれない。
そういう可能性を放りだしてものを書くことは、
何だか乱暴な気がする。
だからといって、気にしていれば
そうならないわけでもないので、
結局はどちらでも同じなんだけど、
それなら文章なんて書かなくていいんじゃないか、
とも思うわけです。
でもそれは、文章に限らず、話すことでも、
日々の関わりの中でもあることで、
ひょっとすると、何にもしないで立っていても、
ぼくが有害ではない保証なんてないんじゃないか。
そこまでくると、ぼくが有害ではないことの
保証が欲しかったのだと気づく。
「だれからも批判されることのない善でありたい」
こう言ってみると、じーんとくる。
そしてさらに、
「けれど、ぼくは全くの善にはなりきれない悪である」
という言葉を続けて見ると、じじじーーんとくる。
また、文章を書ける気がしてきた。
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