円坐とは、生きている輪郭をはっきりさせる時間である

公開日: 2015-02-13 円坐・エンカウンターグループ



ぱーちゃんのこの記事
「無い」ことによって初めて可能になる「触り直し」

「ウハァー・・」というため息がでるほどよく書けている。

これは悔しいという感覚と、
これほどの精度で言語化してくれたことで
じぶんだけでは絶対に見れなかった視界を得られた喜び、
その2つを同時に味わっているからだと思う。

ちなみにこの状態は、この記事で書いたところの
「負け」 にあたる。

ぱーちゃんは「無い」ことについてこのように書いている。

「無い」状態には、落ち着かなさ、不気味さ、暗さが伴う。

そのため、すぐに「有る」状態に変換し、「意味」を受け取りたい衝動に駆られる。
この「意味を受け取ろうとする無意味さ」を見破って誘惑にうち勝ち、「無い」状態に留まってはじめて、「触り直し」が可能になる。

ぼくは、上の文章を見て、円坐のことを思い浮かべる。


円坐には、円になって座ること以外、なにも「無い」。
だから、落ち着かなさ、不気味さ、暗さを伴う。

その中で、「有る」ものを受け取りたい衝動にかられる。
例えば、目的や意味を見つけ出したり、
問題や課題を発見して解決したくなる。

それでも、「無い」状態に留まって、
不気味な暗さを見つめ続けることで、
自分自身への「触り直し」 が可能になる。

自分自身とは、人との関係の中にあるから、
結果的にそれは、自分の周りにいる人を
「触り直し」することでもある。

「ある」状態が溢れている今の世の中では、
円坐ほど「無い」に溢れている状態は、
異常事態といっていいくらい、不気味に映る。

でもそれは、ぼくらが普段、
どれほど自分自身のことを見つめていないのか、
自分の輪郭をはっきりと認識していないのか、
ということの裏返しでもある。

だから、円坐とは、
生きている輪郭をはっきりさせる時間である。
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