見えるところだけきれいに、という構造

公開日: 2015-02-08 日記

ただ、食べる人のために
つくられた料理が一番おいしい。

少し前から、
パートナーが幼稚園の給食づくりのバイトを始めた。
幼稚園の給食、といっても、
そこは配食サービスを行う会社に給食を委託しているらしく、
パートナーはその委託先の会社のバイトとして雇われている。

ここ数日は、
朝8時くらいに出かけていって、
3時か4時くらいになると帰ってくる。
 
先日、疲れていそうだったので、
「どうだった?そろそろ慣れた?」と聞くと、

「調理師の人が、今日は野菜が固かったから、
幼稚園から怒られるんじゃないか、ってへこんでた」
とのこと。

「トラブルがあってはならない」と
子どもや親に神経を使ってピリピリする幼稚園の先生と、
食事の責任を引き受けてストレスを抱える調理師さんを
思い浮かべたぼくは、
「そんなこともあるだろう」と思ってきいていた。

ところが、別の機会に
「野菜や肉は外国産のものを使っているらしい。」
とパートナーから聞いた時に
なんだか変な気持ちになった。



そのときは、その気持ちが何なのかわからなかったけれど、
今思い返すと、
「野菜が固いっていう前に、外国産の食材を使うかを
先に議論するべき何じゃないの!?」
という違和感が浮かんできたからだと思う。

『目に見えるところだけきれいにして、
タンスや押し入れの中がぐちゃぐちゃな家』みたい。

これだって、「まぁ、そんなこともあるだろう」
とは思うけれど、じゃあ、
「子どものことを想っている人はどこにいるの?」
という「寂しさ」を感じてしまう。

料理を作る人は先生を見て、先生は保護者を見る。
すぐに目で見て分かることだけを大事にして、
子どもの身体や将来のことは置いてけぼり。

結果、もの言わぬ食材や子どもにしわ寄せがいくのか、
なんてことを朝、自転車に乗りながら妄想していた。

本当のところは分からないけれど、
こういうことってどこにでも起こっていることだと思う。
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