寄ってたかって本を読む、まるネコ堂ゼミが面白い。
公開日: 2015-04-08 企画の案内
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この「まるネコ堂ゼミ」は、
今まで出たどんな本の勉強会よりも面白い。
ゼミの特徴は2点あって、下記の通り。
1)レジュメがあります
レジュメには、本の抜き書きと抜き書きをした理由が
書かれています。抜き書きをするのは、
「気になったところ」「分からなかったところ」
「印象に残ったところ」「共感したところ」
など、なんでもよく、形式も自由。
一般的な大学のゼミよりも遥かにゆるいレジュメだと
思われますが、これでいいんです。その理由は後ほど。
2)決まっているのは最初にレジュメを読み上げることだけ。
本当はゼミの様子を載せたかったのだけれど、 写真が無いので、まるネコ堂での食事の風景を掲載。 |
文庫本程度の大きさなら、大体3回〜5回程度に分けて行います。
そして各回で、必ずするのはレジュメを作った人が読み上げ、
必要なら補足をすること、それだけ。
あとは、そのとき集まった参加者と自由に過ごします。
長めの沈黙が訪れるときもあれば、本の内容から少し外れて
それぞれの体験について語るときもあります。
シンプルな設計だけど、ぼくの知る限り、
「何かを学ぶ」 という目的が設定された集まりの中では
ダントツで効果的で、かつ刺激的なものだった。
あ、あと、会場となるまるネコ堂こと大谷家で
作ってくれるご飯が美味しいことも入れると3つと
いっても良いかもしれません。
昨年末、まる2日かけて行ったモモのゼミ。 レジュメや感想がサイトにアップされています。 |
なぜ、それほどに面白い学びの場になるのか、
その理由はたった1つ。
シンプルな設計が故に、
「自由な方向性と過不足ない参加」が生まれているから。
ひとえに「本を読み込む」といっても、
「内容を理解したい」
「仕事や人生に活かしたい」
「経験に照らし合わせて自己理解を深めたい」
などなど、
やりたいことは人によって違う。
過去の経験から言えば、本を読み進めていく方式では
内容の理解に重点が置かれすぎ、
2時間かけても数ページしか進まない、
という結果になることが多かった。
かといって、あまりにきっちり資料を作ると、
今度は作った人の意図や方向性が強まり、
資料作成者とそれ以外の人に熱量の差が生まれる。
その点、レジュメ自体がシンプルで、
しかも、作成者が最初に説明をした後は自由という
構成がほとんどされていない形式のこのゼミでは、
参加者はレジュメを足場に、
どのような方向にもゼミの内容を展開できる。
まるネコ堂より画像を拝借。 モモのゼミでは、本のケースに描かれている絵が ひと続きなのではないか、という意見があがり、 実物同士をつなぎ合わせて検証した。 |
しかも、ゼミで扱う本だけが明示されていて、
明確な目的が設定されていないことによって、
(これも、一般的な学びでは、設計不足という評価を
受けそうなものではあるけれど)
参加者はじぶんが満足するところまで展開したら、
なんのためらいもなく議論をやめることができる。
それでは、自分勝手な展開にしかならないのではないか、
という指摘を受けそうだけれど、まさにその通りで、
このゼミの究極のポイントはそこにこそある。
本とレジュメを足場に、
参加者それぞれが全く自分勝手に、
じぶんの求めていることを本から読み解く。
これがこのゼミで行っていることの実体だからだ。
ところが、全く自分勝手にしている探求が
本人の思いもかけないところで、
別の誰かの探求のきっかけになったり、
探求したいことそのものになってしまう。
集まった人が、丁寧で、ちゃんとした自分勝手な 振る舞いをすることで、誰一人不満足にならず、 むしろ全体の充実度が上がっている、 というのは持ち寄り食会でも毎回確認されている現象。 |
これは、現在も確認中ではあるが、
毎回のゼミで必ず起こっている現象的な事実であり、
円坐など、非構成の場でぼくが確認していることや、
トランスパーソナル心理学で言われていることとも
一致する現象でもある。
まだ数回だけれど、毎回のゼミを終えると、
本の1ページ1ページに込められた筆者の意思が、
身体の中に流れ込んでくるような感覚にさえなる。
それは、自分だけの勝手な読み方をするだけじゃなく、
集まった人それぞれの存在を通して本と出会うことで、
乱反射する光のように一冊の本を、
あちこちから照らすことになるからだろう。
きっと古来、こういった集まりのことを
「大学」 と呼んでいたのだと思う。
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