「Facebookが苦手な感じ」についての言語的考察
公開日: 2017-02-26 言葉の研究
前に書いた記事をFacebookで紹介したら、
知り合いのお母さんとコメントやりとりしたり、
「同じように感じてます」「そーなんですかー!」
なんてやりとりができたので、
ってわけじゃないけど、
もう少し詳しくかけそうだなってところを追加。
(でもそういう純粋なコメント自体の楽しさを
初めて味わった気がする)
まあ、苦手かどうかはさておき、
Facebookの作るあの独特な感じと、
じぶんの感覚がどう接触しているのか、
について
言語的な視野からもう少し詳細を書いてみます。
じぶんが「書くように書いている」ことを
まだ知らないとき、
Facebookで一番困ったのは
投稿につくコメントだった。
わかりやすいもので言えば、
自分の誕生日に大量に書き込まれるコメントは
ぼくにとってちょっとした恐怖すらあって、
「おめでとう」の一言でも、
どう返すのかをけっこう時間をかけて考えていた。
結果的に書いたのが
「ありがとう」の一言になったとしても、
「ああ、この人とは久しぶりだよな、
なんかお久しぶりですとか書こうかな、
いやでもむこうは一言なんだから
もっと気軽に返したほうがいいのかな…いやでも…」
なんてことを延々と繰り返すことになるから、
『コメントすべてに「いいね」作戦』でしのいだ後、
数年前に誕生日のお知らせはオフにした。
(今は、気が向いたら戻すかもと思うけど
いつ気が向くかはわからない。)
このときなにが起こっていたのかを
言語の営み、という方面からたどってみると、
自分にとっての文字にして「残ってしまう」強さと
コメント欄が構成する「話し言葉」的な空間が
ズレていることがわからないから、
身動きがとれなくなっていた。といえると思う。
たとえば
生卵は金属バットでわるものだと思っていた、とか
お皿はペンチで持つものだと思っていた、として、
そりゃ生卵食べなくなるし、お皿持たなくなるよね、
というような。
・・・んー、イマイチか。。。
とにかく、
それがいいとか悪いとかじゃなく、
なんかおっくう、やれんことはないけど、
という感覚の生じることだったのでした。
まあ誕生日のコメントは書くように書く人に
限った話ではないかもしれないけれど、
コメントが来るたびにそんな状態だから、
当然投稿も鈍るわけで、
残るのは「いいね」くらいだし、
結果Facebookが苦手だった。と。
ここまで、
結局コメントに尽きるような書き方をしていて、
それはそのとおりなんですが、
タイムラインという「流れていく」記事の中に、
コメントがある、
というのがFacebookの独特さで、
ぼくの場合は、流れていくこと自体が
書きにくさを持っていて、
そこへきてさらにコメントという意味で、コメントに尽きる、という意味であります。
で、このあたりまでわかれば、
Facebook独特の空間性を好むかどうかはあれど、
ぼくにとっては「そういうもんか」という程度で、
自分の投稿自体は書くように書けるし、
人の投稿が話すように書いていても、
お茶しながら話しているみたいに聞けばいい。
「いいね」が数値化する評価?みたいなものは、
そもそも書くこと自体には特に影響はない。
(というのも最近わかったことで、
もちろん、妙に意識はさせられるけど。)
ので、あとは、いいねするなり、コメントするなり、
投稿するなり、Facebookってものを
楽しんだらいいのかな、というのが
「え?今さら?Facebookを?」
という感はありつつも、
ぼくが至ったところでありまして、
引き続きこの感じで行こうと思います。
追記
こういうことがわかったのも、
雑誌「言語」を書いたからでして、笑
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