大坂環状線の車両が新しくなっていたことをつぶやけない

公開日: 2017-03-01 言葉の研究


昨日久しぶりに大阪に出たら
環状線の車両がメタリックでちょっとオシャレで
ピカピカで窓が大きくて、
オリンピックもあるしな、とか
海外からの観光客も多いしな、とか
そんなことを思っていて

こういう気分のとき
TwitterとかInstagramをやる人なら
写真を投稿したりするんだろうなと思って、

そういえばぼくは人と一緒にいる時の
写真を投稿することがほとんどなくって
人と一緒にいる時に写真を撮ること自体が難しい。


ホームに電車の到着を告げる音がなって、
ドアが開いて、乗っていた人が降りて、
開いたドアの右側でそれを待って乗り込む間、

車両の真新しさに連なって、
そういうことがぼやっと浮かんで、
書くことと聞くこととのつながりを思い出していた。


車両を見ている時、
人と一緒にいる時、
ぼくは、
目の前の景色を切り離せないほど
世界を聞いていて、
それを表そうとする意識は遠くかすむ。

書くように表すことは、
自分に張り付いた景色をひきはがし
固定する行為で、
それがどれほど簡易化されても、
「話すように」したてられた空間でも、
書く以上、そんなことをすれば
じぶんはこの駅からいなくなってしまう。

言葉を表すことは、
まったく違う時空間を
その場で生成してしまうような力強さを
じぶんに行使する行為としてぼくにある。

おおげさにいえばそれほど、
目の前のことを聞くこととは隔たっていて、
書くことに対する動機は、
ほとんどの場合その隔たりを
跳躍するほどには高まらない。

撮ること、写すことも同じ。


けれど、そのとき感じたことは
こうして文字にする強度を前提に
表そうとすると鮮明に生成されて、
それはもうそのときの体験とは違うのだけれど、
こうして書いている。

だから当然、この投稿に写真はない。


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