「言語の営み」全体を見れば、正しさや敵味方は消える。ただ「違う」という事実だけが残る。

公開日: 2017-03-02 言葉の研究


約2年前に書いたこのエントリーのつづき。



社会人になりたてのころ、
プレゼンの練習でのアドバイス。

『けんちゃんさ、
「なんか」とか「まあ」って言い過ぎて
聞きにくいから減らして」


言われたとおりに直そうとして、

まるで言葉が鉛のように重くなって、
身体も重たい鎧を着てるみたいで、
窮屈になりながらそれでもなんとか
そのプレゼンを乗り切ったのを覚えてる。


たとえば日常で、
親しい人の話し方が変わったなら、
ぼくはその人を別人のように感じるだろう。

それほどに
声は人の存在とくっついている。

話すという営みは、
息を吸い込んで吐くことも
含まれたもので、
身体と切り分けて離せない。


あまり言われていないことだけど、
だから「話す」という体験が
一人一人独自の体験であることを
疑うことは難しい。

比較的よく言われることとして、
同じ話を違って「聞いて」いた、とか
同じ本を「読んだ」印象が人によって違う、とか
同じことでも人によって「書き」方が違う、とか
があるけれど、

言葉と関わる営みの中で「話す」ことだけが
例外であるはずはなく、

「聞く」「読む」「書く」がそうであるように、
ぼくたちがおもっている以上に
「話す」という体験は、

まったく独自で唯一の体験として
一人ひとりにある。


そしてこれは、
ごく簡単な言い方をすれば、
一人ひとりの記憶のたどり方、
つまり「思い出す」という意識の体験が
一人ひとり違うこととも関わっている。


たとえば
「昨日の夕食に何を食べたか」
を思い出そうとするとして、
どんな意識の体験が起こるのか。


ぼくの場合は、
パートナーが右隣に座っていて、
明るいとは言えない照明がついていて、
家の壁があって、置いてあるお皿があって、
という全体の風景がたちあがる。

で、
実際のところ夕食に何を食べたのかは、
うろ覚えだったりするのだけれど、
「味噌汁があった。ご飯も。
ああ、そうそうコロッケがその隣にあった。」
という感じでお皿や器とセットになった
食べ物が浮かんできて、
その後うまくいけばコロッケの味や
味噌汁の具の感触までが再生成される。


人によってこの体験は、
例えばまったく逆から起こるようで、
食べているときの感覚や身体の感覚から、
食べ物の種類やお皿が、
そしてそれに付随してそのときの風景が
上手く行けば浮かんでくる、というように。

あるいは同じ風景的でもこんな人もいた。
その人は自分の目線ではなく、
空中に浮かんでいるカメラのような位置から、
俯瞰して自分も含めた食卓が
浮かんでくるのだとか。
だから比較的離れた位置にある花瓶とか
そういうものもぱっと浮かぶのだと。



「昨日の夕食なに食べた?」

ごくありふれた投げかけの中でも、
これほど異なる意識の体験をした上で、
人はそれを言葉にしている。

もちろん、仮に意識の体験が似ていても、
言葉にする時の「手つき」は違うから、
その手つきも含めた全体を含めて、
ぼくたちは人が話すという営みを
受け取っている。



ここまできたところで、
さて、
人が人を敵だと思いこんだり
正しくないと思うのはどんなときか。

「自分にとって当たり前」の世界

「相手にとって当たり前」の世界
との違いが分からないまま、
どちらかの解釈を押し付けるとき、
といえるんじゃないだろうか。


そうなってしまうのは、
比較的表層にある言葉を扱う手つきに由来し、
けれどもう一歩深みに目をやれば、
意識の体験そのものが異なることに由来する。


夕食の話を聞いて
「花瓶があった」

と真っ先に返ってきた場合、

極端な解釈をしようとすれば
「バカにしている」とか
「話をそらしている」
とその人を見ることは簡単だ。

このとき、正しさや敵味方は、
聞いている方で(勝手に)発生している。

この勝手に押し寄せる正しさや
敵味方に分ける動きに応じて、
話し手が自分の解釈を返すと、
めでたくケンカや諍(いさか)いが成立する。


「要は違いを認めるということでしょう?」

と言うのは簡単だけど、
世界にケンカや戦争が絶えないのは、

「じぶんにとって当たり前の世界」は

じぶんとくっついて離れたことがなく、
それがあることに一切の疑いを持たないような
見え方のことだから「当たり前」なわけで、

ぼく自身も、限りない夫婦ゲンカをしながら、
ようやくこのあたりまで分かってきた。

けれど、
一度「違う」ことが分かれば、
どれほど憎いと思っていても、
今度こそ別れるしか無いと思っていても、
嵐が過ぎ去った青空のように、晴れ渡る。

そして「違う」という事実だけが
さわやかに、そしてあたり前のこととして残る。



※追記1
 よく読めば分かることだけれど、「当たり前」の見え方を自ら進んで変えたり修正する必要は一切ない。(しようとしてもできないのが「当たり前」でもあるんだけど。)むしろ一ミリもズラしたり、合わせたりせずにその「当たり前」の輪郭を認識したいものだ、それが自分のものでも相手のものでも、と思う。

 なぜならその見え方は、自分や相手が、自分と切り分けられないほど「当たり前」のものとして、ずっと一緒に生きてきたような世界の見え方だから。

 これまで見たきた中では、多くの場合、その当たり前は「親」とか「親族」「兄妹」という自分と近しい人、あるいは自分にとって大きな出来事、に由縁を持っていて、しかも誰かの悪意や操作によって作られたというよりは、ある必然をもって、良かれと思って、(無意識に近いけれど)主体的に選び続けた行動を通して形作られていたりすることがほとんどでした。

 なので、そうした深い由縁をもった「当たり前」同士が重なったりぶつかったり噛み合うということは、それ自体奇跡的なことで、それゆえにどうしようもない悲劇になったりもするのだと思います。こうした景色は、心理学とかスピリチュアルというカテゴリーに寄せるよりは、文学に重ねるほうがぼくにとってはすっきりとしていて、小説の主人公がさっさと心の傷を直してしまったら物語にならないように、「そうとしからならなかった」という一つの事実の重さが、人間の人生には必要だと思うのです。


※追記2
 「花瓶」の例で、本当にバカにしていたり、話をそらしている場合もある。これはそれ以前の関わりで(勝手に)向こう側に敵味方が発生していた、ということなので話が少し違うんだけど、関わりたいなら「なんでそんなことすんの?」ということを話して、向うの「当たり前」までたどり着けば視界は激変する。もちろん、関わりたいわけじゃなければ、スッと身を引くというのもありえる。

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