多数決で決まる「異常」と「健常」はモヤモヤする。多数決じゃ決まらない夫婦ゲンカだから見えるものがある。

公開日: 2017-03-03 言葉の研究


昨日の投稿の続き、
「じぶんにとってこうとしか見えない」
というたとえにうってつけのものを
最近友人に教えてもらった。


上の動画なんかは、
裏表がよく分かるけど、
下の動画はもう、わけがわからない。




どっちも表にしか見えない。
表がまわってったら、
ぐにょん、って
中からまた表が回ってくる、
みたいな感じ。


これホロウマスク錯視、というんだとか。

本当に面白い現象だとおもうけど、
その説明はあまりパットしたものがなくて、

たとえば、
一番上の動画を紹介しているサイトの説明
ちょっとぼくの言いたいことに引き寄せて
(偏りをつけて)要約するとこうなる。



「健常者」の脳は、実際に見ている凹んだマスクという認識よりも、顔はふくらんでいるものだという過去から予測される認識が優勢になるように処理をする。つまり、現実の認識を、予測する認識がキャンセルしてしまってそれが現実かのように見える。
 逆に、精神的に「異常」がある人の脳は、うまく予測する認識を当てはめることができないから現実の認識をキャンセルできずに、実際に見ている凹んだ顔をそのまま認識してしまう。

凹んでいるものを、
凹んでいるように見えるのが
精神的な異常で、
凹んでいるものを膨らんで見えるのが、
健常な精神をもっている人って、

まあ、健常と異常の差というのが
そう見える人がどっちが多いのか、
ということだとしたら
そう言うの分かるけどなんかもやっとする。

これって、
「脳の働き」なわけだから、
視覚だけに特別に作用していると考えるより、
見聞きしたり感じたりするもの、
全般に起こっているはずで、

そうすると、
実際に目に見えるものだけじゃなく、
ある出来事を体験したときの認識とか、
ある言葉を受け取ったときの感覚とか、

人と人が関わる全体に生じている現象では
なかろうか、なんてぼくは思ってしまう。


そして、そういう日常とか暮らしの中では、

「そう見える人」の割合は、
健常と異常に分けれるほど
歴然としていないから、

どちらが優勢になるかは
たとえば声の大きさとか、
論理的かどうか、あるいは反対に
感情的に伝わってくるか、に左右される。


そして、そういうことの代表として、
ぼくが真っ先に思い出すのは
パートナーのなっちゃんとの数知れない
夫婦ゲンカのシーンたち。

よく言う、
「夫婦ゲンカの理由なんて
ささいなもので、
人に聞かれたら恥ずかしいくらい」

というのは、
外から、あるいはあとから見れば
あのお面が裏か表かを
全力で主張しあっているようなもので、

一対一という構図も、
どちらに軍配が挙がるか拮抗しているから、
もう一人居ればスッとおさまるようなことも、
裏と表でがっちりかみあっちゃうし、

自覚的かは置いといて、
パートナーになるくらいの人とそうなるのは
ヒートアップせざるを得ないくらい
自分にとって大切な
「当たり前」だったりするから。

とすればかなり腑に落ちる


たとえば、ぼくらの名バトルの数々に、
今振り返って名前をつけてしまえば

「ほうれん草ゆですぎ事件」とか
「コーヒーが匂う事件」とか
「おしゃれカフェ行きたいの?事件」とか

くだらないようにしか聞こえない。

けれど、渦中の本人たちには、
これを否定されるならもう終わりだと
本気で思えるくらい自分と密接につながった
「なにか」を認識していて、

実際、あの場で「そんなのくだらないよ」
なんて誰かに言われたらすぐに追い出すと思う。
(そもそもだれも顔突っ込んだりしないけど。。)


ここからさらに、
夫婦ゲンカで起こってること、とか
職場や仕事で起こってること、
に踏み込んでいけば、
いわゆる認識論から迫っていく
人との関係性、ということになる。

そしてもちろん、
人の意識は言語と切り離せないから、
それはとりもなおさず
言語の営みからもう一度、
人間という営みに触れ直す道のりなのだけれど、
ブログで書くのはこのあたりが限界。

ということで、
今日はここまで。

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