人間も含めた自然が大きな意味の自然なのと同じように、頭も含めた身体、が大きな意味での身体。

公開日: 2017-03-06 言葉の研究



頭でっかちなぼくにとって、
(リアルな頭もかなり大きいけど、
比喩的な意味で)

身体や心は結構疲れているのに、
頭で「たいしたことしてない」と思って
頑張るのはよくあること。

一番ひどいときは鬱の手前までいって
出社拒否になった。

そんな経験が利いているのか
ここ数年意識してきたからか、
最近はわりと心身の微細な変化も
分かってきて調子がいいような気もする。


さてさて、
こんなふうに言うと、
身体は機械や道具じゃないんだから
身体や心の声を聞いて、
命あるものらしくいきようじゃないか、
なんてことになりそうだけど、

「そいつはちょっと安直じゃないかい。お嬢さん」

ってなもんで、
身体の全体っていうなら、
頭だって立派な身体の一部なのである。

いろんな場面で、
結構悪者にされている「頭」。

けどなんで
自分の一部を敵だと決めつけちゃうのさ。


頭でっかちのぼくにとって
(今度は比喩じゃなくて物理的な意味で)

「頭」は他人とは思えない。

いや、
梅田の帽子屋をまわって、
一つもピッタリの帽子が見つからず、
店員を驚愕させてまわったぼくのように、
特大サイズの頭の持ち主じゃなくたって、

「自分」の頭を持ってる時点で、
頭を敵にするのは、
自分を敵にするのと同じなんじゃあないのかい?

(さっきから言葉が変な話し言葉風に
なってきてるけど、このままお送りします。)


体は良い。
頭(的な判断)は悪い。

そうやって
こちらとあちらに分けるのって、
そもそも否定しようとしてる
「頭」的な動きとおんなじじゃんっ。


あいつ(頭のこと)
そんなに悪いやつじゃないよー。

なんでそんなに敵だとおもっちゃうのよ。


あいつ今もこうして
(読んだり書いたりするのを支えてる
という意味だと思われます)
ぼくらのこと支えてくれてるよ。

ぜーんぶ、よかれと思ってやってんのよ。


たしかに気づかないうちに
いろんな処理してくれたり、
整理してくれたり、見え方調整したり、
そのおかげで見えなくなっちゃうものも
あるんだけど、
それも、ちゃんとよくよく見たら分かるよ。

あんたにとっての「当たり前」なものほど、
気づかないようなそういう
あいつ(頭のことね)の縁の下の力持ち的な
努力に支えられてるから。


そういうあいつの
声にならない声みたいなの聞くときにこそさ、
さっき言ってるところの
身体の声ってやつを聞いてやってよ。
結局頭もそれ以外もつながってるからさ。

結構あんたにとって大切な、
ずっとにぎりしめてきたような、
そういうことが分かるんじゃないかな。



・・・はい。やっと落ち着きました。

よく言われる、自然とはどこまでなのか、
みたいなものをもっと手前に引き寄せると、
今言った感じになるのではないかと思われます。

人間も含めて自然だとしたら、自然とはなにか。

頭も含めて身体だとしたら、身体とは何か。


心や身体がしんどいけどがんばっちゃう、
ってことまで含めて自分なわけで、

中沢新一が「カイエ・ソバージュ」の冒頭
「生命科学の機械論的凡庸さ」を
乗り越えていくものとしての第三次形而上学革命
と言っていたのは、
こういうことまで見渡せる視界のことに違いなく、
やっぱりそれは言語の営みを見渡すような視界
のことだと思うのです。

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