SYNODOS「質的調査VS量的調査」の対談記事を読んで ”アンチ”じゃない主張
公開日: 2017-03-05 ニュース考
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おもしろい。
「当たり前」を、どちらからすくい上げるのか。
僕が生まれる数十年かそれ以上前から、
「量的」な見方に「正しさ」を見る人が
多くなって(きて)いて、
この対談でもやっぱり
「質的」な方にいる岸さんという学者さんは、
ちょっと劣勢なように見える。
けどよく読んでいくと、
比較に対する切り返しなんかは特に、
これがまさに「質的」な表現の仕方なんだよな、
と思えるもので、
ちゃんとその位置をキープしていて引けをとっていない。
(と思う)
量的なものを優先して進んでいくと、
「ちょっと待ってよ、見えないものが置いてかれてるよ」
となり、
”アンチ”として質的なものを優先すると
「いやいや、この時代にこの国に生まれたら
見えるものの恩恵を受けないなんてむりじゃん。
その上に堂々と乗っかって否定しても。。。」
となる。
だから、
”アンチ”じゃない「質的」な人の戦いは、
ただただ自分の居場所を告げるだけになる。
一見、頼りなかったり、弱そうにみえるけれど、
実は、体感しないと分からないような類のことを
「伝える」ということは、
その道をいくしかないんじゃないか、
というのは今のぼくの思うところ。
別のものを取り出して(比較して)
伝えたいものを伝えるほうが、
別のものを使っているだけ伝わりやすい。
けれど、そうじゃなく、
絶対にこえられそうにない崖を前に、
どうしたらそこを飛び越えていけるのか。を。
質的と量的をどちらも自在に行き来することでしか
見えないのものがあって、
言語がおもしろいのは、
言語自体に質と量が内包されていることだと思う。
記事抜粋
(筒井)Aとはそもそも何か、という時に、Bと比較することで、Aと違っていることが分かるのは、日常的な感覚だと思うんです。
(岸) 全然そんなことないですよ。たとえば、焼き肉が食べたいときに、バナナと比較しませんよね。
(筒井)そんなことぼくもしませんよ(笑)。
(岸)それぐらい、違うものを比較しているような気がするんですよ。
(筒井)たとえば、差別A、差別Bがあった時に、なぜそれが焼肉とバナナくらい違うのか、ということについては、その説明責任はそちらにあると思いますよ。
(岸) 安易すぎるという感覚があるんです。部落の話題を出しているのに、在日を比較しろっていうなんて、それ自体が暴力とすらいえる。そんなことも分からないなんて、説明するのも徒労に思えてしまいます。
(筒井)いくら人に深く聞いても分からないことってあると思うんです。人間は自分が思っているより、その考え方や行動が、性別、年齢、職業といった要因、量的調査だと基本属性っていいますが、そういった社会的要因に影響されているかもしれない。そんな傾向が実際にあるのかどうかは、量的調査でないとわかりません。
(筒井)たとえば仮に自殺した人に質問できたとして、自殺の理由について「経済的な理由だった」とか「さびしくて」とか返ってくるかもしれない。でも、そういった「聞かれたら自分でそう答える」ような主観的な理由とは離れて、性別、年齢、世代、学歴、そして職業が自殺行動に影響していることがあると思います。それはアンケート調査じゃないと分からないですよね。自殺率はたいていの国で男性の方が高いですが、かといって自殺の理由を個々の人間から聞き取っても「男だから」とは答えないでしょうから。
(岸)ぼくたちは現場でいつも、「お前には何がわかるねん」と言われ続けているんです。10年、20年かけて、やっと歴史的背景も知れて、関係性もできてきて、話をしてくれるようになった。それなのに、急に「他と比較したら」って言われると、それは違うだろうと、なりますよね。
(岸)よい質的調査は、ある対象の「内部の多様性」を描いていますね。恣意的に集団Aと集団Bを比較するのではなくて、集団Aに徹底的に入り込んで、その中での様々な多様性や流動性、亀裂や葛藤を描きます。そのほうが生産的だと思います。
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