対立や衝突は「当たり前」が触れ合う中で起こっているという話
公開日: 2017-03-07 言葉の研究
「言語の営み」全体を見れば、正しさや敵味方は消える。ただ「違う」という事実だけが残る。
この記事を書いてみて、
もとになった記事
について、
今ならもうちょっと違う言い方をするな、
と思っていて、
そのことを言葉にしてみようと思う。
書き出しにあるパートナーとの夫婦ゲンカは、
2年経った今でも相変わらずやっていて、
お互い頑固で意地っぱりな上、
去年は家づくりで体力も精神力も
ギリギリの状況だったから、
お互いが腹の底から怒鳴り合うケンカを
何度もしていた。
まぁ、そこまでいかなくても、
人と人が真剣になにかをやりとりする渦中では、
いくら理論や理屈が分かっていても、
そんなものは助けどころか邪魔なだけで、
とにかく自分そのままでぶつかるしか道は無く、
まあ突き詰めれば
ぼくがこうしてパートナーとのケンカについて
考え続けるのはそうするのが面白くて好きだから、
ってことに集約される。
でもおかげで、
2年前の当時は、「ケンカは無い方がいい」
と思っていたけれど、
今は、しいていうなら
「起こる時に起こるべくして起こる」
もんだと思うようになった。
あえていうなら、
「花が咲いたり、雨が降るみたいに、
そのときの状況や流れで
人と人の間に起こる一つの出来事」
という感じ。
それから、
「相即」という言葉については、
当時慣れない言葉を多少無理して使っていて、
今も仏教用語に詳しくないから、
2年前の記事の書き方や理解が
(仏教に詳しい人にとって)どうなのかは
実際のところよくわからない。
けれど、
今改めて「相即」の(辞書の)意味を見ると、
当時の僕が
「離れたところに同時に起こる現象」
と見ている一方で、
今の自分が、「当たり前」同士の「接触」
と見ているように、
くっついて離れないような理解のほうが
多分近いんじゃないだろうかと思う。
実際、
最近パートナーとの間で確認しているのは、
一方にとっては何気なさすぎて
気づきもしないような行動や発言が、
もう一方にとって「えぐられる」ような
痛みや怖さを与えるような現象で
こういうことは
「離れたところに同時に」という見方では
不明な現象にしか見えない。
あるいは無理に解釈しようとすると、
どちらかが原因でどちらかが結果、
という「問題」を生み出す構造をとる。
それよりは、
一方にとっての「当たり前」の動きが、
もう一方にとっての
「当たり前」に触れることで
瞬間的に引き起こされている現象だと
見るほうが実際に近いと思う。
これは、
お互い真っ暗闇の中で動いていて、
相手が自分の足を踏んで、
自分は痛いけど相手は地面だと思っている、
そんなシーンに重ねることができる。
なんで踏まれただけでそこまで痛むような
場所や体勢でそこに足を置いているのか、
は当たり前すぎて見えない。
同じように足を踏む方も、
どうしてそこを通らなくてはいけないかは
当たり前すぎて分からない。
足を踏む、踏まれるという出来事が
同時に発生することと、
両者がその出来事の影響で
なんらかの心や身体の変化を察知する
ということとは別のことだ。
そして、よくよく見ていくと、
「どうしてそこを通らなくてはならないか」
というのには、のっぴきならない理由があって、
「どうしてそこに足をおくのか」
にも、ひくにひけない事情があって、
他の人ならそこまで痛くなかったり、
はなから接触さえしなかったりするのに、
わざわざ、あえて、どうしても、
その人とじゃないと起こらないような
事態が二人の間で起こっていたりする。
パートナーになるほどの人とのそれは
もう見事なもので、
ぼくらのことでいえば、
※黒ひげ危機一発の当たりを
毎回初手で的中し合うくらい、
お互いの一番突かれたくないところを、
突いたり、突かれたりしている。
もちろん飛び出るのは、
可愛らしいおもちゃじゃなく、
痛みや怒りや恐怖なんだけど、
ほかにどれだけでも剣を刺す穴はあるのに、
なぜ毎回「当たり」になってしまうのかが
見えてくると、
※ほんとうにまだ自分が小さな頃に
「決めた」とも思わないほど
当然のこととして選んだあり方や
ものの見方にまでたどりついたりする。
ここまでくると、
ケンカって捨てたもんじゃなくて、
むしろ良いこともいっぱいある。
(渦中は死にそうだから、もちろん
あとになって言えるだけなんだけど)
少なくとも、
ケンカでもしなけりゃ
一生思い出さなかったかもしれない
自分の姿はかけがえがなく、
そしてまた、
それはいつも一緒にいてくれて、
ケンカに付き合ってくれている
相方がいるからこそ起こってることで、
ありがたい、
(文字通り、あること自体が難しい、
つまりめったにないような、
「有り」「難い」)ことだと思う。
※黒ひげ危機一発
これ知らない人いるのかな。昔流行ったおもちゃ。黒ひげという海賊が穴のたくさんあいた樽の中に入っていて、その穴にメンバーが順番に剣をさしていくゲーム。毎回ランダムに「当たり」の穴が変わって、そこに剣を刺すと黒ひげがびよよ~んんと飛び出る。たまに一番最初に当たることもあるけど、それは稀で、最後の3つとか2つになったときのヒリヒリする感じが醍醐味なんだと思う。ちなみに、剣を刺すにはかなり近づかないといけないから、飛び出るとけっこうびっくりする。ぼくはあんまり遊ばなかったけど、なぜ小さい頃によく見かけたような記憶があるのだろう。
※過去の体験をどうみるか
ぼくは心理学にも全然詳しくないけど、小さい頃の体験が影響してなんたら、、、みたいな理論くらいは多少耳にしたことがある。けど、目の前の体験や出来事を見るために過去の体験や影響をもちだすのって、なんか変、というか順序が逆な気がしてしまう。
「父親を重ねていて」とか、「母親からの影響があって」という解釈付きで世界をみるんじゃあ目の前にいる人が見えなくなってしまうと思うから。
もちろん、親や兄妹からの影響はほんとにでかい。だからある体験から結果的に親や兄妹との関わりについて見えてくることはよくある。けど、先回りして過去の影響から逆算するように今を見るのは、文学作品のあらすじや結末だけを見て、作品を分かった気になるのと似ている気がする。「いやぁ・・・まあいいけど、、それ楽しい?」って。
「おもひでぽろぽろ」という映画で、主人公の女性が最後、過去の自分とか記憶が溢れて、世界全部の見え方が変わってしまう、みたいなシーンがあるんだけど、ほんとうに当たり前のものとしてじぶんに張り付いていたものが霧がはれるみたいに見えてくるときの体験は、そのシーンに良く似ている気がする。そういうとき、もう過去とか未来とかは全部ごちゃごちゃになっていて、切り分けることができない。もしかしたら監督の高畑勲さんはそういう体験とか世界をよく知っているひとなんじゃないだろうかと思う。
0 件のコメント :
コメントを投稿