音読合宿のご案内

公開日: 2018-07-09 企画の案内

シャツをインしている筆者 と猫


毎度ながら、催しの案内が週週間前にならないと書けません。。

大谷さんの案内はこちら。
試して、繰り返して、面白がる音読三昧の30時間合宿

言語合宿でジャック・デリダという哲学者の本を音読した。
(参考までに音読した箇所を最下部に転載してます。)

読んだときに広がったのは、
大学の大きな教室。
300席はくだらない段々に並んだ机に満員になって座る学生たち。
そこにデリダ先生あらわる。

あの有名なデリダ先生が何を言うのか固唾をのむ学生。
それに対して「今から話す程度のことも分からないものは、
次回からの授業に参加しないように。」とでも言わんばかりに、
アクセル全開で「グラマトロジー(書差学あるいは文字学)」
について語り始める。

手入れの行き届いた革靴を履きこなし、
清潔感のあるズボンとシャツの上にジャケットを羽織る。
シャツはもちろんズボンの中にきっちりとインされている。

読む前は単なる小難しい哲学書で、
読んだ後もそれはおなじなんですが、
だいたい3回位本気で朗読したときに、
今みたいな雰囲気がある程度見えてきて、
デロンと出ていた自分のシャツをズボンに押し込みました。笑


デリダが本当にシャツをインしていたのか、
大教室で高飛車な授業をしていたのかは、全く知りません。
知らないんだけど、「ぼくにはこうとしか読めない」という意味で、
この本はそういう景色を伴った一冊として傍らにあります。

声に出して誰かの書いた文字を読むということは、
まさにその文字を書いているその人になること。

たかが音読がなぜそんな大げさになるのか。それは、
文字には、作者が書いたまさにその瞬間の意識が詰まっているから。

それは「思い」や「魂」と呼ばれたりもしています。
「作者の思いを受け止めよう」「文章に込められた魂を感じるように」
という言い方をすると、やや情熱的でなんとなく伝わる気もします。
「言霊(ことだま)」という言葉も近いニュアンスを持つでしょうか。

けれど、当の生きている(死んでしまった)本人の思いや魂と、
作品の中に込められた作者の意識というのが、
果たして同じ意味を持つのかどうか。僕自身は違うという立場をとってます。
だから、「魂」とか「言霊」という言葉はあまり使いません。
このあたり込み入った話をここでするのも何なので、
当日、話す機会を作ろうと思ってます。

で、声、というのは口だけじゃなく、
気をつけてみると喉や肺を使っていて、ということは肺を動かす横隔膜、
横隔膜が動くということは内蔵も間接的に動く、
さらに文字を読むときには目や手という脳神経と密接につながった
働きが不可欠・・・・・・とすると、
音読というのはよくよく考えてみると
複雑に全身を使って織りなす重労働だったりするわけです。

そんな全身運動をしながら、作者が作品に込めたものを辿る、
ということですから、そうするとやっぱり音読というのは、
実際に全身を使って文字を書いているその人になることなんじゃないか、
というのがぼくの音読に対する考え方です。

で、じゃあ具体的にどんなことをするのか、というと、
ひたすら文章に馴染む。文章を自分の身体を通すことに慣れる。
これを時間を区切りながらやっていきます。
最後に舞台を作って、一人ひとりの音読を聞きあう時間を作ります。

読む本は、ジャック・デリダ「グラマトロジーについて」
そして、マルティン・ハイデッガー「形而上学入門」です。
書いた人も違うけれど、ふわふわニュルニュルとしたフランス語と
カチカチゴツゴツのドイツ語の違いもおそらく味わえるはず。
(もちろん読むのは日本語訳ですが、訳文でもそれは十分感じ取れます)

買ってきてもいいですが、音読する箇所は印刷して配布します。

一般的に今回の本は音読には向いていない本とされています。
(向いているのは、小説やエッセイ)
けれど、音読に向くとか向かないというのは多分、
読み手も聞き手も書かれている「内容」が理解しやすい、
というような意味合いで言われています。

けれど、音読が身体と意識を総動員する全心運動だとすると、
内容の硬軟はあまり意味がありません。
むしろ、内容なんか全くわからないくらいでちょうどいい。
・・・気がしています。
「何言ってるかわからないけど、
とにかくこの人はシャツをズボンにインしている。」
本を読むときに限らず、誰かの話を聞くにしたって、
結局一番ぼくたちの奥底に響くのはそういう、
内容の底に流れている文体やヴォイスだと思ってます。

だからこれはその奥底を掴むための合宿です。

それから、ここまで読んでいただいた方には蛇足かもしれませんが、
ぼくが開く音読の会は、「大きな声で」とか「メリハリをつけて」、
という、いわゆる「上手な朗読」を目指していません。
一つの基準に向かって音読してしまうと、
なにより僕自身が途端につまらなくなるからです。

身体を使って声を出すにしろ、書かれた文字を読むにしろ、
骨格や指紋、筋肉のつき方、体の癖、これまでの体験、
景色の見え方・覚え方、それらは驚くほどにバラバラです。

なので、目指すべきは、その人その人の、
読み方や身体の使い方を極めていく、ということになります。
そのためには、自分の身体や読み方を知ること、それに尽きます。

ぼく個人としては最近、音読が上達したなと感じてますが、
これはあくまでぼくの身体の使い方、文字の読み方が分かってきた、
という意味で、残念ながら別の人が真似をしても、
そもそも身体も意識も違うのだから、意味がないと言うよりそもそも無理、
というような話になるわけです。

とはいえ、人間全く別々の存在でありながら、
筋肉と骨と神経は誰にでもあったり、同じ言葉を見聞きして類似したものを
思い浮かべたり、似たり寄ったりなところもあるわけで、
人が集まると自分特有の部分と、似たり寄ったりな部分がよくわかります。

それこそが、もっともぼくが面白いと思うことで、
「え、そんなところからちがうわけ!?」とか、
「なんとなんと、意外にもこの人とこの人が似てるのかー」とか、
夏の暑い盛りにわざわざ集まって音読するなんて、
ちょっと普通じゃありえない集まりを開く意味は、
そのあたりにあると思ってます。

休憩には、我が家から持参するかき氷機を使ってかき氷たべたいと思います。

一緒に汗をかきながら合宿しましょう。


小林健司


===

▶講 師:小林健司
▶内 容:課題図書に挑んだり、自分の好きな本に浸ったりします。
▶持ち物:各自音読したい本をお持ちください。
     まるネコ堂の蔵書から選んでもOKです。

▶日 程:2018年7月28日(土)、29日(日)

▶時 間:
 28日(土):11時 講師の話から開始
 29日(日):17時頃 終了
 ※終了時間が遅れる可能性があります。

▶参加費:15,000円(宿泊・食事込み)
▶場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    アクセス

▶食 事:まるネコ堂で作って食べます。
▶宿 泊:まるネコ堂で宿泊。雑魚寝です。通いも可。
▶定 員:5人程度
▶注 意:猫がいます。アレルギーの方はご相談ください。
▶主 催:大谷 隆

▶お申込:marunekodo@gmail.com までメールにて。
 ・お名前
 ・電話番号
 ・その他(何かあればご自由に)

<講師 小林健司のプロフィール>
愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。ソーシャルビジネスの創業支援をするNPOでの勤務を経て独立し、大阪を中心に活動。2016年、滋賀県(琵琶湖の西北西あたり)にセルフビルドのログハウスを建て、2017年に第一子(男の子)が生れる。近所でバイトをしたり、執筆や子育てをしたり家の裏にある山や琵琶湖を散歩したりしながら、新しい暮らしをつくっているところ。自他ともに認める音読マニアで音読の会を開催。
人とことばの研究室 http://hitotookane.blogspot.jp/

<主催 大谷隆のプロフィール>
宇治市出身。「まるネコ堂」代表。編集プロダクションとNPO出版部勤務を経て2010年5月独立。自宅のまるネコ堂で、読む書く残す探求ゼミ、講読ゼミ、雑誌「言語」発行、考え事などを庭をうろつきながらしています。
言葉の場所「まるネコ堂」 http://marunekodoblog.blogspot.jp/
まるネコ堂ゼミ http://marunekodosemi.blogspot.jp/


ジャック・デリダ「グラマトロジーについて」

第一章 書物の終焉とエクリチュールの開始

 言語の問題は、このような表題の下で人が何を考えようとも、疑いもなく、他の諸々の問題と並ぶような一つの問題などでは決してなかった。だがこの問題は、そのものとして、今日かつてないほど、意図、方法、イデオロギーにおいてこのうえなく多様な探求の、またこのうえなく異質的な言説(ディスクール)の、世界的な地平に侵入してしまっている。「言語(ランガージュ)」という後の価値下落そのもの、「言語」という五部の信用貸において語彙の冗漫さを暴露しているすべてのもの、ほんの少しの骨折りで籠絡せんとする誘惑、流行への受動的な依拠、前衛の意識即ち無知、こういったものすべてがそのことを証言している。「言語」という記号のこのようなインフレーションは、記号そのもののインフレーションであり、絶対的なインフレーション、インフレーションそのものである。しかしながら、それ自身の一側面、あるいは一つの影によって、それはさらに何事かを指し示す。この危機は、また一つの徴候でもある。この危機はあたかもその意に反して、一つの歴史=形而上学的時代は、自身の問題設定の地平の全体性をけっきょく言語として規定せざるをえない、ということを示している。時代がそうせざるを得ないのは、たんに、欲望が言語の戯れからもぎとろうとしたもののすべてが再びそこに取り戻されるからだけではなく、また同時に、言語そのものがそのためにその生命を脅かされ、航行不能になり、もはや限界をもたないために纜(ともずな)を解かれた状態になると感ずるからであって、さらに、自身の諸限界が消失すると思われるまさにそのときに、また、言語が自身に安閑としていることをやめ、自身を越えるように思われた無限の〈意味されるもの〉によって包含され纜をつけられる(brode')ことをやめるまさにその瞬間に、言語が自身の固有の有限性に送り返されると感じるからなのである。


※翻訳原文では、()のカタカナはルビで表記されています。()内がひらがなのものは筆者追記。
※太字は原文のママ
※それにしても、これがたった一つの段落として書かれている、ということはなかなかに驚くべきポイントなので、ご注目を。
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