麻原死刑執行に思う2 誰かの正しさではなく自分の事実を追うために

公開日: 2018-07-07 ニュース考

こちらの記事の続き。
麻原死刑執行に思う1 小林よしのりと吉本隆明

こちらは読まなくてもつながりますが、関連した記事。
小林よしのりと吉本隆明



10数年ぶりによんだ「よしりん」の本はひどいものだった。

10代後半から20代の人生を方向づけたような本とその作者が、30代半ばになって読み返して「ひどい」と感じるのは、ちょっとした悲劇であり喜劇だと思う。文字通り、ちょっと悲しくもあり笑ってしまうけれど、だから反省するとか小林よしのりを否定するという方に興味は向かず、だとすると何が起こっていたのか、強烈に知りたいと思った。

何が起こっていたのか、の中心にあるのは「ぼく自身に」ということだけれど、それを知るためにもまず、ぼくが当時「よしりん」のどんな言説に影響を受け、そしてそうではない見方として何があったのか、を知る必要がある。

小林よしのりと吉本隆明が名指しでお互いの意見を否定していたトピックは「『戦争論』にまつわる議論」の他に、すぐに思いついた。「薬害エイズ事件」、そして「オウム真理教の事件」、それぞれについて二人の意見を中心に調べ始めた。ぼくの記憶でも、そして実際に確認してみても、小林よしのりは2つの事件について、それぞれ安部英医師、麻原彰晃被告を諸悪の根源として描いていた。

対して吉本隆明は、その2つについて直接の被害者が罪を問うのならまだしも、マスコミも見識者も一斉になって犯人探しをするどころか、最初から悪人を決めつけて土下座でも迫るような断罪の仕方はいかがなものか、罪や諸悪の原因を論じるにしてももっと違うやり方があるんじゃないか、と慎重な議論を呼びかけていた。

当時中学生だったぼくには、リアルタイムの報道や雑誌や論壇の雰囲気はわからない。少なくとも確からしいのは、吉本の意見は裁かれるべき悪の擁護としてバッシングにあっていたようで、それは例えば森達也の著書「A」の中で事件当時のマスコミがオウム=絶対悪というスタンス以外の報道ができなかった、という状況とも噛み合っている。慎重な議論を呼びかける趣旨の吉本の言葉も、今読んでみると少し過激に過ぎるんじゃないかと思えるような言い方だったりするのは、そういう雰囲気が生んだものだったのだろうか。

結果的に、今僕の知りうる限り、麻原被告と安部医師がそれぞれの事件の黒幕だというのは、当時のマスコミの報道の仕方の主流となり、今もなお多くの人がそれぞれの事件の真犯人的な位置に二人を認識していると思う。ぼく自身もそうだった。

けれど、麻原被告に関して言えば、坂本弁護士一家殺害事件についても、地下鉄サリン事件についても、その実行過程や動機、そして実行犯の実体などについては検察の描いたストーリーだけでは説明しきれない部分が多い。詐病だという裁判所の判断も妥当なものなのかはかなり怪しかったりする。(そのあたりの参考文献はこちら。「オウム真理教 関連事件についての参考書籍」

事件の解明や真相の究明を脇において、憎き悪人を早く殺してしまえ、と死刑を急ぐことは、はたして司法として、冷静に未来を見ていこうとする態度として、やはり性急じゃないかと思う。

何が真実なのか、どの情報が正しいのか、についてはそれぞれが別々の角度からの情報を並べた上で判断したらいい。ぼくが「よしりん」に惹かれた一つの理由は、それまで「日本は戦争でひどいことをした」ということだけしか聞いたことのなかったところへ、実はそうじゃない部分があってそれは意図的に伝えられなかったんだ、ということに目が開かされたと感じたからだった。

皮肉なことにその「よしりん」によって、「薬害エイズ」や「オウム真理教」についての見方が片手落ちになったまま長い時間を過ごしてきた。もちろん小林よしのりの作品だけのせいなはずがなく、マスコミや当時の知識人の多くも結局は同じ論調へと傾いたことなどが重なったのだけれど、では彼らは意図的に別の事実を隠したのか。

事実はそうではないだろう。自分の見解が正しいと確信しながら先頭を切って発言したもの、それに従うもの、ちょっとした違和感を持ちながら言い出せなかったもの、これは違うと思いながら非難や実害を恐れて口先だけ合わせたり傍観していたもの、そういう連鎖の中でひとつの出来事は偏った見方だけが正解かのように広がっていく。どこの組織でも、どんな人の集まりでも、だれだって巻き込まれたり犯しうるような単純な人の行動原理が大きな渦となって巡り、被害者や加害者、そして正義の衣をまとった暴力を生む。その中で、ときどきの役割をそれぞれの立場の人が演じることになる。

そこまで見渡したとき、ただ一人、まわりから何を言われようが、自分の本が売れなくなる危険があろうが、自分の違和感を表明し続けた吉本隆明の存在に目がいく。激流の中でそんな人が一人でも当時の日本にいたことをありがたいと思うし、敬意を払いたいと思う。とはいえ、吉本の意見が正しいのかどうか、それは自分の目で確かめてから結論をくださなければならない。
というより、幸いにして?、吉本は自身でそれぞれの事件について本腰を入れて執筆することはなかった。1990年中盤と言えば、「母系論」(1995)、「アフリカ的段階について」(1997)、「アジア的ということ」(2002)などを出していく時期で、年齢も70を過ぎていたから、残りの人生で果たせる仕事を考えると、本心はそちらに注力していたかったのだと思われる。事件に関してはほとんどインタビュー形式のもの、あるいは雑誌への短い寄稿文という形なのも、そのせいだろう。

2つの事件で何が起こっていたのか、そして「戦争論」を巡る言説。結局のところ、それをよくよく見ていくよりほかになく、地道にそれらを追いかけることが、ぼくに何が起こっていたのかを読み解くことなのだろう。そしてそれは、80年、90年の日本に何が起こっていたのか、現代の日本に何が起こっているのかにまで届くのではないかと思う。

もう少しまとまってから、一気に書いていこうと思っていたけれど、思いがけず朝のニュースに接して、こうして今思っていることを書き留めておく。


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